日記
僕は今まで、他人を必要以上に自分の内側に入れてこなかったように思う。
今までの人生の中で、人生を恙なく生きるには精神の安定が最上であると直感的に感じていたのかもしれない。
精神を安定に保つには自分だけで完結するのが一番最短で効果のある方法だ。
自分だけなら機嫌を取るのも比較的容易だし、自分の機嫌が直ればそれで終わりだからだ。
思い返してみれば過去の人間関係、特に男女関係での失敗は執着の強さにあった気がする。
要は人に対して踏み込む歩幅というか、飛び込み方が下手くそだったのだろう。
そんな失敗を経て、僕は段々と「他人の領域に重心を載せない」という生き方を学んだのだと思う。
一見後ろ向きな動機だが、これはこれでメリットは意外と大きい。
他人に基本的に執着しなくなるので対人関係の距離感が非常につかみやすくなる。これのおかげかは知らないが、この生き方を実践してから友人はとても多くなった。
昔から友達を作ることにあまり不自由はなかったのだが、だいぶこなれた感じで接することが出来るようになったのは間違いなくメリットだろう。
さて、今の話だ。
こんな話から始まったが、今現在僕は絶賛自分以外の人に重心を乗っけている。
喜怒哀楽(怒は無いが)を他人要因で発生させているのは過去の自分からしたら驚きの一言だろう。
序盤にも書いたが、僕は他人に自分の重心を載せるというのは非常にリスクがあると考えている。
リスクというと意地の悪い書き方だが、何せ感情という不確実で不安定なものが倍になる上に、片方は自分には関与出来ない領域なのである。
僕には自分がコントロールできないものに関してはコントロール自体をしようとしない癖があるので、ただその流れに身を任せることになる。
過去の自分なら確実に「自分のコントロールできない領域に自分を置くなんてナンセンスだ」と言うだろう。
だが、現状はこれはこれで悪くない。いや、これが心地いいとまで言える。
僕には相変わらず他人の感情はよくわからないが、自分が重心を載せている感覚と同時に、相手が載せてくれている感覚もある。
確かに昔はこれが原因で傷ついたこともあった。そのために今回の関係を築く際にも必要以上に憶病になっていた面もある。
そんな僕に対して踏み込んできてくれた人を大事にしたいと考えた時、僕も覚悟を決めて踏み込むべきではないかと考えた。
最初はそれでもやもやすることもあった。
加減がわからずに踏み込んでしまうので、自分が自分が、という視点が非常に多かったように思う。
自分に対して客観的な魅力を感じていないので、不安になっていたのだろう。
最近はそれもようやく落ち着いてきた。
日々お互いに感情を表現して距離を縮めることで、自分の中にも「愛されている」感覚がやっと出来てきたのかもしれない。
今でも自分の客観的な魅力がわからないというのはあるが、相手が自分のどこに魅力を感じているのかはようやく信じられるようになってきた。
相手が自分に魅力を感じているところがわかって自分でもそれを信じられるのであれば、そこをより良くなるように磨いたり、それを拠り所にして不安を和らげることもできる。
いずれはそういった努力も必要でなくなっていくのだろう。
繰り返しになるが、僕は他人を自分の内側に入れている人間は弱点が多くなると考えていた。いや、ベースの考えは変わっていない。
例えば社会的な行動に対するリスクも、自分だけがどうにかなる場合と自分が大切にしている人に影響が及ぶ場合では後者の方が明らかにリスクが高い。
しかし最近はそうして弱点を持つこと自体が別の強さに繋がるのではないか、というのを感じるようになってきた。
確かにリスクは大きい。だからこそそれを含めても大丈夫なようにすればいいのである。
自分が持てる大きさ以上のものを持つからこそ辛いこともあれば幸せなこともある。そういうものを素直に考えられるようになってきたのは間違いなく今そばにいてくれている人のおかげだ。
こうして改めて書くと、やはり相手への感謝が非常に大きいなぁと感じる。
素直に愛情表現をしてくれるとか以上にこういう気付きを齎してくれたのは僕にとって非常に価値の高いことである。いや、勿論愛情表現をしてくれることにも無限に感謝をしている。
いつまでかかるのかわからないけど、僕が受け取ったそういうものを返せるまでだけでも一緒にいたいなぁと思う。
感謝を忘れずにいたいものである。
2024.10.23
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