見る、見られる
見ることで学び、見られる事で洗練されていく、というのはあらゆる舞台芸術の基本ではないでしょうか。アルゼンチンタンゴでは、舞台芸術家でなくてもこの相互作用をダイレクトに感じることができます。
タンゴのダンスパーティでは、たいていの場合、テーブル、椅子などがダンスフロアをぐるりと取り囲んでいて、参加者は、踊っていない時、そこで談笑しながら他の人のダンスを見て楽しめるようになってます。つまり、プロのパフォーマーでなくても踊る時に「観客」がいるのです。
この「観客」は自分たちも踊るので、音楽、ステップの難易度、様々なルールなどは一応把握していて、その上に自分の好き嫌いを重ねて「お、やるじゃ~ん!」「ありゃ、すっぽ抜けちゃたよ……」などなど、勝手なことを心の中で言いつつフロアを眺めているわけです。
そんなに見られては踊りにくいのではと思いきや、踊る方は、最近習ったステップや、初めて踊るなかなか素敵なパートナーや、床の滑る所やらに気をとられて、観客のことなど気にする余裕がないことが多いのも不幸中の幸い😅。あがり症で子供のときピアノの発表会に出られなかった、という人がいうには「(舞台で一人ぼっちのピアノと違って)他にも踊ってる人がいるし、僕みたいなのをわざわざ見てる人もいないと思って」ミロンガでは緊張しないのだそうです。
……でもあなただって感じているはず。モリネッテのカウントを一つも逃さずサカーダを決め、何事もなかったかのようにロンダの動線方向に戻ってきて、アブラソにフォロワーを包みこみ、呼吸と共に一つになって動き出す前の一瞬、賞賛の視線が背中や横顔を撫でるのを。
視線は見られる人を磨きます。また、見る方の目が肥えていると、その作用はより強力になります。タンゴを見る目が肥えている、といえば、やはりアルゼンチンの老舗ミロンガの常連さんたちでしょう。旧知と思しき人達とテーブル席についてしゃべりながら、時折無表情な視線をフロアに投げたり、(私には)意味不明の掛け声をかけたり、パラパラと拍手をしたり。彼ら、一体何に反応しているの?
ある日のミロンガで、デモンストレーションをしたのはサロン・スタイルの踊り手として皆から愛されているペア。もう若くないその二人は、しかし優雅に、かつメリハリのある動きでピスタを横切って来ます。エンロスケ、ラピス、サカーダ、バリーダ……どんなステップであろうが、ダンスのラインにピシッと戻ってくるリーダー。その固めで重めのリードが感じられるくらい近くで、彼が方向転換をするべく頭を巡らせたその瞬間、私は見たのです。
あ、これ知ってる! ミンゴだったっけ? それともニト??
何気なく、でも地球の中心とリンクしているかのような軸で立っている彼の、流れるような頭から肩へのラインからマエストロたちの面影が立ち昇ったとき、私も何人かの常連さんと一緒に賞賛の声をあげていました。
常連さんたちは沢山の、沢山の記憶を重ねながら踊り手を見ているのでしょう。歌舞伎の大向こうが役者のちょっとした仕草をさして「あすこの所作には先代が透けて、涙が出そうになったねぇ」なんて言うのと同じ。そしておそらく、この視線が、彼らの前で踊る人たちをピカピカに磨き上げ、あの圧倒されるようなオーラ、タンゴの正統な継承者の印を与えるのです。
いくら記録映像を撮っても、古くからのコミュニティに息づく美学まで写し取ることはできません。あまり考えたくないですが、この人たちがいなくなってしまった時、間違いなくタンゴのページはめくられます。そこで物語は終わり、博物館に飾られる文化財になるのか、それとも、新しい物語が始まるのか? 誰が次の物語の主人公たちを磨き上げるのか? そう考えると、見る人達、アルゼンチンだけでなく世界中あちこちのコミュニティで、今、タンゴを見ている私たちの役割は、結構大きいかもしれませんね~。
©2024 Rico Unno