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タンゴ in USA

良くも悪くも世界中に大きな影響力を持つアメリカ合衆国。アルゼンチンタンゴも例外ではなく、その影響を様々に受けてきました。

 観光などでアルゼンチンに行かれた方は、あちこちで米ドルが使えること、米ドルで払うとお得な価格設定になっている物も結構あることに気づかれたと思います。自国通貨のペソよりアメリカのドルが信頼されている状態は長く続いていて、アルゼンチンの人は嫌でも毎日アメリカの、ドルの影響を身近に感じながら生活しているわけです。

 アメリカ合衆国の影響は政治にも及んでいます。冷戦期には共産勢力の拡大を防ぐという目的で、合衆国はアルゼンチンだけでなくラテンアメリカのあちこちで内政に干渉し、民主主義が滞ってしまいました。アルゼンチンでは、軍事政権が反対勢力を大弾圧した「汚い戦争」と呼ばれる時期を経て、民主主義が再興されたのはやっと1983年になってからでした。

Tango Argentino

 その1983年に伝説のショー『Tango Argentino』はアルゼンチンを離れ、国外での興行を始めます。国外初演はパリ、わずか1週間の興行でしたが大成功をおさめ、イタリアツアー、フランスでの再演の後、1985年にはアメリカ、ニューヨークのブロードウェイに上陸します。フアン・カルロス・コぺマリア・ニエベスなど当時のトップダンサー、それもショータンゴだけでなく、サロン(Héctor Elsa Maria Mayoral)、ミロンゲーロ(Virulazo とElvira Santamaría)と、アルゼンチンで当時踊られていた様々なスタイルごとに名手を配したダンスキャストに、Sexteto Mayor が音楽を担当したこのショーは、トニー賞にもノミネートされるなど大成功をおさめ、アルゼンチンタンゴの世界的なリバイバルのきっかけとなりました。

 面白いのは、このショーが、女性だけでなく男性の、それも熟年男性の心をがっちり掴んだことです。初演時のダンサーの平均年齢は42歳、決して完璧とは言えないボディで華麗なステップをこなし、信じられないようなオーラを放つタンゲーロス男性ダンサーたちのダンディズムに、女性だけでなく(お付き合いで劇場にやってきただけだったのかもしれない)男性陣もノックアウトされてしまったわけです。お金も名声も行動力もあり、好奇心も自信も満々なニューヨークの熟年世代、「ひょっとしたら、オレもできる踊れるかも……」「もちろんよダーリン♡ グリニッジヴィレッジでレッスンあるみたいよ。一緒に習いましょ🌹」とタンゴを習う人が急増し、本場のタンゴを習うため、わざわざアルゼンチンを訪れる人も出てきました。

 一方、アルゼンチンでは、当時まだ軍政期の抑圧の影響が残っていて、タンゴは古臭い娯楽として細々と踊られていただけでした(関連記事はこちら)。また、男性がタンゴを真面目に習いたい、と思っても「よし坊主、じゃあ今晩ミロンガダンスホールに来な。オレの踊り方をよーく見てマネしてみな」などとミロンゲーロミロンガの常連たち言われることも多かったのです。

 そこにいきなり、本場のタンゴを習いたい、とスペイン語もおぼつかない外国人が米ドルを懐にやってきた……。その結果は、グスタボ・ナヴェイラの言葉を借りると「この間までそこらのミロンガで踊ってただけの奴らもみんなマエストロ先生、ってことになっちまって」。おまけに「生徒」たちは「セクシーな」「情熱的な」「ポーズの決まった」タンゴを踊りたい。...…そんな妙な踊り方してる奴はここらにゃいないぜ。でもどうしても金払ってくれるっていうんなら……。ブエノスアイレスのあちこちで少々喜劇的な光景が展開していたことは想像に難くありません。

 そんな中でもやはり素晴らしいダンサーや教師は自然と選ばれ、国外のワークショップなどに招かれるようになります。また、1990ー2000年代にはアメリカ各地に「タンゴ・ソサエティアルゼンチンタンゴNPO」ができ、人気アーティストは引っ張りだこで、タンゴ・ソサエティやダンススタジオを回って教えるようになりました。

 この様な国外でのレッスン活動はアルゼンチンタンゴの教え方にも大きな変化をもたらしました。見て盗め、から、順序立てての説明に。ソコんとこは感じて踊れ、から、感情表現のための身体の動かし方の練習に。スペイン語オンリーから英語・フランス語などOKに。また女性やLGBTQ+の人たちへの接し方にも大きな変化がありました。

 教える側、習う側の試行錯誤を経て、現在、有名ダンサーが自分のスタジオやレッスンビデオの配信会社をアメリカに持つなど、合衆国はアルゼンチンタンゴのビジネスモデルになくてはならないものになっています。

ダンス・スペクタクル、競技会とその先に

 アメリカがアルゼンチンタンゴに与えた影響を考えるとき、もう一つのショー『Forever Tango』にも触れないわけにはいきません。プロデューサーのルイス・ブラボーはアルゼンチン人で元はプロのチェロ奏者ながら「これは私のタンゴファンタジー」という『Forever Tango』をうまくアメリカのショービジネスの波にのせ、1990年代以降20年以上にわたってツアーを成功させました。

 名ダンサーの妙技を淡々と並べた『Tango Argentino』にくらべ、『Forever Tango』はもっと一般のアメリカ人観客にアピールするよう、ダンス・スペクタクルの要素を取り入れ、また、テレビスペシャルなどメディアもうまく使って、劇場に来ない人にもアルゼンチンタンゴのイメージを届けました。ミリアム・ラリチ扮するバンドネオンの精の Tus Ojos de Cieloマルセラ・デュランとカルロス・ガビートの A Evaristo Carriego など(好き嫌いは別にして)一度見たら忘れられないシーンは、良くも悪くも一般のアメリカ人のもつアルゼンチンタンゴのイメージを方向づけたのです。

 アメリカという巨大マーケットで知名度が高い、という事は、ダンサー、ミュージシャン、振付家、関係者すべてのビジネスチャンスが大きいという事です。またこのショーは積極的にオーディションを通じてダンサーを登用したことから、チャンスに敏感なアルゼンチンのダンサーの間で人気がありました。

 でもオーディションに受かる人はほんの一握り。また、メガヒットするようなショーは少なく、タンゴダンサーとしてのキャリアを打ち上げるのは至難の業です。一方、タンゴ教師としてのキャリアを考えた場合、普通の人が踊って楽しむタンゴの人気が続いてくれないと困るのは明らかです。そこで難しいのは、観るタンゴ(ファンタジア)と実際に踊って楽しむタンゴ(サロンタンゴ)がいろいろな点で違うことです(詳しくはこちら)。そういう違いをさりげなく教えつつ、ショーを観て自分も踊ってみたいと感じた人たちをうまく受け入れて教え、ビジネスとして継続できるようにするのに有効な仕組み、として注目されるようになったのが競技会でした。

 競技会というアイデアが出てきた当初、即興性と個性をとても重んじるオレはオレの美学を踊るタンゲーロ達は「タンゴは社交ダンスと違うよ」「どうやって優劣つける気だい?」「正気の沙汰とは思えない!」と大反発しました。あちこちで激論が続き、私など野次馬は、まとまるわけないよね~、と思っていたので、2003年ブエノスアイレスでムンディアル・デ・タンゴタンゴ・ワールドカップが実現した時には驚いたぐらいです。振り返ってみてですが、議論が空中分解しなかったのは、

  • タンゴが生き残っていくためには世界の需要を取り込まないといけないと言う点が、国の内外で教えたり演じたりした経験のある関係者の間に共有されていた

  • アメリカやヨーロッパで社交ダンスの競技会形式を模したアルゼンチンタンゴの競技会が開催されはじめ、アルゼンチン側が結束して行動を起こさないと、主導権がなくなってしまう、という分岐点の時期だった

などグローバル化要因(と市の財政支援)が大きかったのかな、と思います。競技会モデルにもまだ改良すべき点はあり、これからもいろいろな展開があることでしょう。

 現在、アルゼンチンタンゴは世界遺産にも登録されていて、アルゼンチン政府も積極的に支援しています。不健全な娯楽、と政府から弾圧を受けていた頃からは隔世の感です。しかし公的援助を受け入れたという事は、公の期待にそった基準でいろいろなことが行われなければならないという責任をアルゼンチンタンゴ界が受け入れた、という事でもあります。その流れの中、アフリカ系、女性アーティストのタンゴへの貢献の再評価などは進んできています。また、LGBTQ+の人たちの位置づけ、それに伴うタンゴのイメージの変化をどのように消化していくのかなど、息長く取り組んでいかないといけない課題もあります。

 さあ今後どうなっていくんでしょうね。展開を予想するカギは、ブエノスアイレスではなくて、案外、アトランタやマイアミなんかにあるかもしれまんよ。
©2024 Rico Unno 

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