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協調性とは
協調性って、何ですかね?
そう疑問に感じたのは小学生の頃。
通知表の「協調性がある」の項目に○がついたことは1度もない。
私の考える協調性とは、
他者と協力して物事を成すこと
お互いの不足点を補い合うこと
皆がなるべく平等に負担すること
お互いの考えを尊重しあうこと
皆で目標に向かっていくこと
歩幅を合わせながら遂行すること
そんな感じですかね。
「協調性」という言葉そのものが私には非常に曖昧に思えてきますけど。
何をもって協調性と言うのだろうか?
小さい頃からリーダー役をまわされることがとても多く、それなりに人をまとめる事はしてきたのだけど。
それになれなかったからと野次を飛ばす人には協調性があって、群れをまとめる方は協調性がないの?と思っていた。なのでリーダー役は引き受けないようになっていった。
周りの仕事の進捗が芳しくなければそこをフォローしたり、誰かが困っていれば話を聞いて打開策を一緒に探したり。そういうことをしていると、必ず言われていた。
あいつ目立つからムカつく。
だから、ずっと協調性というものを押し付けられることに抵抗があった。カリスマ性みたいなものが不足しているからか?と思ったこともあるのだけど、どうやらそうでもなくて。
ただ単にそうやって野次を飛ばすだけの人が多い環境や、時間と共にそれに負けてしまう自分の弱さも原因なのだとは思う。
大きな群れを率いていればそれが「協調性がある」のかとは今でも疑問に思う。群れが大きければ優秀でも何でもない。それがネガティブが根元になっていれば尚更。
多分そのネガティブな群れと自分を比較して、自分は群れることができないからダメな人間、協調性の欠片もない人間なのだと自分で思い込んでいたのだと気づいた。
自分の意見は昔からハッキリ言う方。ダメならダメでいいのだけど、言わないことそのものがモヤモヤしてしまうから。その自分の意見を言うこと、もちろん押し付けなどはしていないのだけど、それが「協調性がない」と言われてしまうとどうしようもない。
自分の意見を言わずに、5番目くらいで賛同することが協調性があることなのであれば、多分私は一生協調性がない人になる。全てにおいて誰かの意見に賛同して、他人の真似だけしていれば協調性があるのだろうか?と。
今でこそ自分の意見を言える自分を認められるのだけど、どうしても学校や組織の中では群れの方が認められやすい。
彼らが口にするネガティブは、例えそれが嘘であっても真実として伝わってしまう。事実は違うのだけど、そんなのどうでもよくなってしまう。
群れることができない私は、いつでも孤立してしまうしそれを受け入れている。ネガティブに巻き込まれるくらいなら例え傷ついたとしても1人の方が安心できるから。
集団で人の揚げ足を取ることや、罠に陥れることをする群れが協調性があると判断されること自体がおかしな話だとは思う。多数決の多を取れば楽に生きられるのだろうなとも思う。
自分の意見なんか口にせず、右ならえ右で生きている方が楽なのだろう。
けれど、私にはどうもそれができないみたいだ。