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忠実ということ

日本社会において、「忠実であること」は、よく評価されるなと感じます。
学校社会においては、「忠実」な生徒はまず高評価を得やすい。
だから、生徒は「忠実」であることを、なんの疑いもなく身に着けていきます。

「忠実」であることが、なぜ、評価されるのか。
考えてみました。

それは、間違いを起こさないからでしょう。

言われたことを忠実にこなす。
基本に忠実である。

これって、管理する者にとっては、とてもありがたいことじゃないでしょうか。

さて、なぜこの「忠実」について書こうと思ったかというと、
バスケットボールの指導をしていて、今、かなり困っているからです。
忠実な選手ほど、ミスをする。

最近、大事な試合を控えていて、練習の内容も変わってきています。
今はとにかく実践。
夏のビルドアップ期間はとにかく反復練習で、ドリルなどを行ってきました。
私はこれを「足し算」と呼んでいて、できることを増やしていく、という練習方法です。
一方で、できることをどう使っていくかが勝負なわけですが、今はまさにそこ。これを「引き算」と呼んでいます。
全部頑張れ、は、無理。
なのに、私はこの国で生きてきて、この国で教育を受けてきましたが、振り返ると、「全力」というのは「すべて頑張ること」だと思わされてきたような節があります。

全部頑張ったら、相手に裏を突かれるのがスポーツです。
(いや、私は社会もそうだと思っていますけどね)

「引き算」では、ここはやられてよくて、ここは絶対に取らなければいけないという取捨選択を言っているのかもしれません。

そして、目の前にいる子たちは「足し算」は得意なのですが「引き算」が全くできない傾向があります。

ゆえに、ものすごく頑張っているんだけど、結果が報われない。
間違った選択や判断を繰り返している、いや、判断せずに「忠実」に間違った選択をしてミスをしている。そんな現象が勃発しています。

なぜならば、「マニュアル思考」だからです。
「マニュアルに忠実」です。
ああ、そうやって教わったんだね。ということを忠実にプレイで示す。
素晴らしいですよね。

でも、それやる必要ある??ということばかりやります。

なんでこうなるかといえば
「セイフティーはゴールまで戻りなさい」と教わったとして、
セイフティーは「何をするために」ゴールまで戻るのか、ということを考えて身に着けなかったからです。

セイフティーとは、オフェンスのシュート時に一番ゴールから遠い人が、相手からカウンター攻撃をされないように、ゴールを守ること。

この「相手からカウンター攻撃をされないように」が抜け落ちていて
何も考えずにゴールまで戻ってしまいます。

結果、今日何が起きたかというと、
相手のバックコートでボールを奪おうとするプレスディフェンスにおいて、
ゴールまで先に戻ってしまっているので、一人ノーマークができていて、
バックコートに残ってディフェンスをしていたプレイヤーたちの努力はまるで意味がなく、
なんなら全速力で加速しているオフェンスを迎え撃ったためゴール付近で抜かれて簡単にシュートされてしまいました。

カウンター攻撃をされないために、ゴールへ戻っているはずなのに、
むしろ、ゴールへ戻ったがためにカウンター攻撃を受けてしまいました。

なぜか。

カウンター攻撃できそうな相手がいるかどうかを見ていないからです。
いないんであれば、ゴールに戻る必要はない。
ゴールに戻った15メートル走った分、無駄。体力の無駄。
自分がいるその付近で、相手をピックアップしてしまえばいいのです。
プレスをしているので、みんなはそうしています。
一人、「忠実に」セイフティーの行動をとったがために、みんなの努力は水の泡。本人も、15mも走って戻ったのに、簡単にゴールされました。

これはいったい何が問題なのでしょうか。
本当にこんなことばかりが起きます。
多くの子が教えにとにかく「忠実」です。
指導者が絶対なんです。

5年前の私なら、こんな選手をほめていたのではないか。
なぜなら、本当に自分勝手に動く選手ばかりだったから。
言ったことをやろうとしない選手が多かったから。
しかも間違っていたんですけどね。

だから、いまのチームを見るようになって、
なんていい選手たちなんだろう!!と感動したんです。
そして、5年間勝てなかったのに、今のチームではすぐに少し勝てるようになりました。
でもそんなんしてさらに5年が経とうとしていて、
「おかしいぞ??」と思うことばかりです。

なぜ。
自分でものを考えないのだろう。
なぜ。
自分の行動に責任を持たないのだろう。

そして、「忠実」であることによって、指導者の責任が大きくなっていき、
限界が訪れました。

この「忠実」であることは、怖さを孕む。
最近、何度も言い聞かせているのは、「指導者の言うことを聞いていたって勝負は勝てない」ということです。

相手があるスポーツで、相手のやっていることもわからないまま、マニュアルだけ実行していて、
確かにそれは正しいのかもしれないが、勝負は勝てない。
そして、それは楽しいのか?

今まで教えてくれた指導者の言っていることは間違っていない。
やっていることも間違っていない。
スポーツほどマニュアル化できない世界はない。

相手との駆け引きに、ある程度の正解はあれど、マニュアルを開いて考えるほどの時間はないのです。
マニュアルってなぜ作られるか。
それは誰がやっても同じ結果になるようにするため。
要は、「考える」頭脳を持ち合わせた人間が同じことを実行させるには、マニュアル化が必要だということ。
すなわち、「考えるな」ということなんです。

それを理解したうえで「忠実」な人間を育てているのだろうか、教育は。

「考えない」ということは、非常に危険なこと。

私は、バスケットボールを通して、この「忠実であること」から脱却を図り、自分で考えて自分で現実を創造する力を育みたいと、強く思っています。

こういう「忠実」な選手・生徒ほど、考え方を変えるのは非常に難しい。
「忠実」であるがために評価されてきたわけなので、
彼女たちからしてみればそれを手放すわけですから、それは怖いことです。

なので、とても嫌な言い方をして「忠実」という幻想から目を覚ましてもらう必要があります。
頭に刺さった針を抜くために
頭に指突っ込むんです。
それは、生易しいことではない。
実際、毎日私の見ている選手は泣いています。
これをするには、信頼関係なしにはできないことです。
そして、それだけのことができる関係を長い時間かけて築いているという事実でもあります。
「忠実」であるということは、真心や思いやりがある証拠でもあるのです。
普段の生活のなかで、そのシーンを見逃さず、さすがだね、素晴らしいね。と声をかける。
こういったことなしに、この指導は成立しない。
今は毎日泣いてますが、自分で考えて現実を創造することの楽しさを体現する未来を私は見据えていく必要があります。

自信がないとできないことではありますが、
それは、上級生が今現在体現してくれているから、私が励まされています。
彼女たちの1年前は「忠実」そのものでした。

1年間かけて、マインドセットをした結果、今は、本人たちの口から
「なぜその練習方法なのか、自分で考えて意図を理解して取り組もうよ。先生も説明してくれてるけど、その前に自分で考えて取り組まなきゃ練習作れない」と下級生に語ってくれます。
そんな姿を見ると、1年前の彼女たちを抱きしめたくなる。
だから、いま、毎日泣いている下級生を安心して叱ることができます。
抱きしめながら叱っています。(心で)

この話から言いたいのは
何を評価するかで、育成年代の人間が身に着ける態度は変わる、ということです。
評価をすることの、重み、怖さ、それを自覚し、教育に携わっていきたいと思います。


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