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【ドラマ】《前編》春馬君から目を離せない度No.1ドラマ『わたしを離さないで』

新しい年、ひとつ目の作品レビューに何を題材にするかは、年末からずっと悩んでおりました。
書きたいレビューが山積みなのです。
ただし、頭の中に(笑

実は、年末最後に観た春馬作品は、『コンフィデンスマンJPロマンス編』で、年始最初に観た作品も、『コンフィデンスマンJPロマンス編』でした(ただ単に、2回続けて観たタイミングが年を跨いでしまっただけですが)

華やかで、珠玉のエンターテイメント作品、春馬君のファン全員が大好きであろう『コンフィデンスマン』は、年始に相応しいなぁと思ってましたが、繰り返して観るうちに、もう少し温めたい気がしてきて、むしろ真逆の方向性に振り切ってみたくなりました。と言うわけで、今回は、春馬君作品の中で、重くて切なくて悲しい物語の代表と言っても過言ではない『わたしを離さないで』についてレビューしてみたいと思います。
新年から暗い?いえいえ、この作品は暗いだけじゃありません。よろしかったらどうぞお付き合い下さい。

究極のパラレルワールド

『わたしを離さないで』は、臓器移植のために作られたクローン人間のいる世界のお話です。物語は、そのクローン人間たちの生い立ちから、臓器移植という「使命」を終えるまでを人間ドラマとして描きます。

その世界では、クローンからの生体間の臓器移植が当たり前で、その移植によってクローンが亡くなっても、それはまるで使い捨ての道具のような扱いで、クローンには基本的人権はありません。なぜなら、クローンはクローンであって、人間じゃないから。

ところが、主人公の綾瀬はるかさん演じる恭子たちが育てられた施設では、情操教育に重きが置かれ、人間的に豊かな心を持つクローンを育てています。本来、健康な臓器を提供する事が目的のクローンは、社会的な位置付けとしては家畜のような存在だから、教養を身につけたり、心を育てる必要性はないのかもしれないのですが、なぜかこの施設は特別で、クローンたちは心豊かに育てられています。

一定の年齢になり、施設を卒業して、人間社会の中で暮らすようになっても、人間社会とは基本的に交流しないクローンたち。ガラスの天井ならぬ、ガラスの壁に囲まれたクローン同士の世界で生きながら、臓器提供の順番を待ちます。
順番を待つ間は、施設で少しばかり「人間らしい」時間を過ごしたり、すでに臓器提供が始まった仲間の身の回りの世話をする「介護人」をしたりもします。

その淡々とした日常においては、普通の人間たちと同じような暮らしぶりで、心の交流もあるし、葛藤もあります。生殖能力のないクローンたちは、娯楽として、またコミュニケーションの一手段として、セックスも楽しみます。だけど、どこかなにかがちぐはぐというか、現代社会の日常とは大きく異なる違和感みたいなものが、終始根底に流れている究極のパラレルワールドを舞台にした作品です。

原作はとにかく淡々とした話

『わたしを離さないで』を初めて観たのは、春馬沼に落ちて、わりと初期だったと思います。何度も言ってますが、「難病モノ」や「人が死ぬ話」が苦手な私がなぜ早いタイミングでこの作品を見たかと言うと、以前に原作(日本語訳)を読んだ事があったので、それがドラマで、しかも日本版として、どんなふうに描かれるのか興味があったから、です。

にもかかわらず、今日までレビューを書かずに来た理由は、ドラマを観たら、やはり原作(英語版)を読んでみたくなって、少しずつ読んでたら、時間がかかってしまいまして。。。

なぜ、日本語訳→ドラマ→英語版、というプロセスをたどったかと言うと、原作(日本語訳)とドラマが、あまりにも良い意味で違っていたからなのです。

もっとはっきり言うと、個人的な好みで言わせてもらえば、日本語訳の原作よりドラマの方が断然良かった。でも、それではノーベル賞までとったカズオイシグロ氏に失礼な気がして、やはり原典にあたるべきだなと思いたち、読むことにしました。無駄に律儀な性格なので。

3種類楽しんだ結論を先に言ってしまうと、それぞれ違っていて面白かった。。。というオチ。

普段、原典と日本語訳両方を読み比べるという事はあまりないので、その事自体も新鮮でした。それはともかく、カズオイシグロ氏のオリジナルを読むと、とにかく平易な文章で、品がよく、頭のいい聡明な女性の一人称がすごく自然で読みやすい。一応、イギリスを舞台にしたお話なんだろうけど、特定の国や地域の文化や習慣に、不必要に引っ張られる事なく、独特の空気感がむしろ無国籍な物語に思えて、それが結果的に違和感なくパラレルワールドの雰囲気を作り出している。よく書かれた小説だなぁとしみじみ思いました。
淡々としたひとり語りの形式にもかかわらず、けして暗い語り口ではないので、テンポよく読める。とは言え、続きが気になってガツガツ進むと言うよりは、読み手も淡々と少しずつ楽しむ感じの作品でした。
難しいわけではないけど、なぜか読むのに時間がかかるのが、不思議と心地よい作品でした。後半の伏線の回収の仕方も、論理的で矛盾がなく、悶々としない展開で、楽しい物語ではないけど、読後感はすっきりする小説になっています。

日本語訳バージョンも、淡々とした雰囲気はそのまま、重い内容の割に独特な明るい雰囲気の塩梅もいい感じに訳してあると思います。ただ、日本語には女言葉と男言葉がありまして、会話文を訳す時は、話者が男性か女性か、その年齢の設定などによって、語尾を変えるなどして、キャラクターらしさを表現するのが普通です。当然、この作品でもそういう訳し方になっているのですが、んー、んー、んー?
私がオリジナルを読んで感じたキャラクターの雰囲気とは、やや違うかな〜という感じがしました。

例えば、トミー(トモ)は、ワイルドでガサツな感じが強すぎるし、キャシー(恭子)は、スノッブさがやや鼻につくし。
そしてルース(美和)は、おそらく1番キャラ設定が難しく、良くも悪くも読み手の想像力に依存するような書き方になっているが故に、訳者の方が苦労されのか、なかなかつかみどころがない仕上がりな気がします。
オリジナルを読んで、日本語版を読むと、いくぶんすっきり解釈できる部分もあるのですが。

以前に、日本語訳を読んでなんとなくしっくりこなかったのは、この物語がひとり語りである事により、女性言葉と男性言葉のみで展開していて、ストーリー展開上の出来事の語られ方が、どうもキャラクターとフィットしていない違和感だったのかもしれません。

その意味で、オリジナル版を読んでみて、この作品の楽しみ方の引き出しが増え、より楽しめるようになったと思います。

オリジナルから見たドラマ版

オリジナル版を読んで改めてドラマを見直すと、ドラマ版の脚本のクリエイティビティがホントに際立つ事に驚かされます。

おそらく、このドラマの脚本は、演じる役者さんに合わせて当て書きになっていると思うのですが、当て書きする過程で、より演じる役者さんに寄せて、キャラクターを変更したり、ストーリーも変更しています。

例えば、ドラマ版で、恭子(キャシー)が大人の雑誌を見ているところを美和(ルース)に見つかるシーンがありますが、原作では、トミー(トモ)が見つけます。
小説でも、ドラマでも、それぞれに違和感のないエピソードになっているのは、まさに、原作とドラマでキャラクターの設定が異なるからです。もし、ドラマ版で、トモが見つけていたら、と想像してみても、やはりピンと来ないのは、私だけではないはずです。

全体を通して見ても、非常に当て書きが成功しているドラマだと思います。メインキャスト以外の役だと、施設の園長先生役の麻生祐未さんの怪演は、このキャラクターを原作よりもかなり存在感のあるものにし、原作にはない設定もありつつ物語に深みを出していて、キャラクターの使い方としては、非常に上手いと思います。
脚本を書かれた森下佳子さんのアイデアなのか、企画として考えられたのか、麻生祐未さんの怪演から生み出されたアイデアなのか、知るよしもありませんが‥

とにかく、綾瀬はるかさんあっての恭子だし、水川あさみさんあっての美和だし、そして、春馬君あってのトモ。
このトモ役は春馬君でないと成立しなかったと思います。
春馬君ファンとして、ビギナーではありますが、脚本の良さでは、これまで観たドラマの中では、間違いなくダントツに良い作品でした。
日本語訳を読んだ時点では、それほどこの作品に魅了されたわけではなかったのですが、ドラマに端を発して、いまでは『Never let me go(原題)』に関わる作品群すべてのファンになりました。

長くなってきたので、続きは後編で。後編では春馬君演じるトモについて、書いていきたいと思います。

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