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【ドラマ】《後編》春馬君から目を離せない度No.1ドラマ『わたしを離さないで』

ドラマ『わたしを離さないで』のレビュー後半です。
前半はこちら

この作品、暗いとか重いとか、春馬君演じるトモが、物語の最後亡くなるとか、春馬君ファンの方にはなかなかハードルが高くて、観られないという声もよく聞きます。確かに予告とかの映像イメージからだとそういう印象も受けるし、春馬君は最後亡くなる役ではあります。でも、トモという役は前向きで明るい役ですし、それを演じる役者三浦春馬の職人魂が光る作品なので、ぜひいずれかのタイミングで、楽しんで頂きたい作品です。

冒頭に出てくるトモの不思議な存在感

この物語は、介護人として働く恭子の日常を描きながら、記憶をたどって現代と過去を行ったり来たりしながら進んでいきます。
前半は、恭子とトモは、疎遠になっている設定の上、主に子供時代の記憶を辿るので、春馬君はごくごくたまに、現在の様子がフラッシュのように登場するだけなのですが、その印象は強烈に観ている人の脳裏に残ると思います。

ドラマの冒頭では手術台にいる春馬君。麻酔がかけられ、手術がはじまるようだ。と思ったら、どうやらもうひとり別の男性も手術を受けている?あれ?さらにもうひとり手術を受けてるような?そして、たまに映り込んでくる恭子。予備知識なしで観てたら状況はまったく飲み込めない。いや、原作を読んでいた私でも、それが「提供」の場面である事は想像できても、どの段階のどの場面の、誰なのか、まったくわからない。

手術室の春馬君は、腹部にドレープかかかったまま、放置されている。なんだか様子がへん。血液と思われるしみが刻々と拡がってるけど、放置のまま。やがて意識が少し戻り、虚な表情で横を見る。とりあえず生きてるっぽい。視線の先にはもう一件の手術。

酸素マスクをつけた男性が、もう最期の様子だけど、この人は春馬君じゃない。
え?なに?どゆこと?

この冒頭のシーンは本当に強烈で、この場面を見て、心折れて先に進めない人は多かったんじゃないだろうか。いい意味で、視聴率を取りに行ってないドラマなのかもしれません。

第一回目の放送を見ても、描かれているのは現代と見た目が酷似したパラレルワールドだという事に気づけない人もいたのではないかと思います。ただの気色悪いドラマだと思われるかもしれないリスクを犯しても、あえて説明らしい説明もなく、淡々と物語が進んで行くのですが、とにかくあの冒頭の春馬君、なんだったの?と気になる。
手術室というシーンの設定もだけど、あの春馬君のなんとも言えない表情がどうしても気になるのです。

私は原作を読んでたから、トミー相当の役なのねと思って見てたけれど、よく考えてみたら、小説はキャシーのひとり語りだから、時間軸的にキャシーと接点がない間のトミーの事は描かれないのです。でもドラマだと、こうやって映像でその間の様子もチラッと見せてくれるから、色々想像力を掻き立てられる。

トモは何を思ってるんだろう?もう人生の終わりを感じているんだろうか、恭子に思いを告げられなかった後悔なのか、もうそんな事は忘れちゃってるのか、まだ将来に夢を持ってるのか、もう運命を受け入れて悟りを開いてしまっているのか。
答えがなんなのかは、誰もわからない。

春馬君はこのシーンを淡々と演じています。
特になにか強くメッセージを発しようとしてはいないみたいにみえる。だけど、何度も見直してみると、やはりあの虚ろな視線の先に何か希望を見出そうとしてる気がしてならない。トモはどんな時も明るく前向きな人だから。

もちろん、子役たちの熱演も素晴らしい初回と2回目の放送でしたが、現代のトモが出てくるたびに、ついついトモの事を考えてしまう。
それは、半分は原作を読んでたせいだけど、半分は、おそらくあえて心情を隠した演技をしてる春馬君のせいなんじゃないかと思います。

春馬君なら、なにかを明確に意識して表現してたはずなのに、読み取れなかった私の力不足か。あえて、物語の冒頭だからなにもかも心情を見せない演技をしてるのか。

でも、とにもかくにも、どう頑張ってもとれない棘のように、あの表情がずっと心に引っかかっているまま、作品を見ることになりました。

10代のトモは人としてまだまだ発展途上

この作品では、10歳前後の子供時代を子役が、10代後半の時代とそこから数年後の20代半ばの青年期を、大人キャストが演じています。20代半ばの青年期が現代の設定です。

10代後半と、20代半ば、年数にして数年の違いですが、自分の経験を振り返ってみても、この間の数年で、人は一気に大人になるのではないかと思います。10代後半は、背丈など外見的な部分は完成するものの、精神的にはまだまだ子供な時期。
そこから、少しずつ社会との接点が増え、世界を広げて、いろんな経験をして、20代半ばでようやく精神的に一人前の大人になっていく。

たった数年の事だけど、そこには人としてのbefore after があるのですが、春馬君はさまざまな技術を駆使して、演じ分けています。
とくに、実年齢と離れた10代の演技は何度見ても秀逸です。仕草や目線の使い方は、子供時代を演じた中川翼君の雰囲気を踏襲して、何かを見るとき上目遣いな演技をしていたりします。身長が180近い春馬君が、立ってやる芝居の時に上目遣いをすると、画角に収めた時なんともヘンテコになりそうですが、案外とうまく成立させてしまうのは、子役と連続性のある演技だからなのかも。よく考えて演技してるなぁと改めて感動します。

また、おそらく閉ざされた環境で育ったクローンたちは、実際の10代よりは幼いであろう事は想像できますが、そんな人としての経験のなさから来るおどおどした感じ、不安な感じも、全て顔に出るタイプのトモ。人間関係に不器用で、思ったように立ち回れなくて、悔しい思いをするトモのこの時代のシーンは、とにかくどのシーンも見ていても歯痒くてせつない。時間は限られているというのに、この年代のトモは、優しいけど優柔不断で1番大切な人を大切にできないダメ男なのです。でも、なぜか春馬君が演じると、そんなダメ男も愛すべきキャラクターになってしまう。これは、他の作品でもよく起こる現象ですが、「春馬君、なぜ君は、どんな人でも愛すべきキャラに持っていってしまうのよ?」と、微笑ましくなってしまうのは、春馬君ファンの性でしょうか。

10代のトモのシーンは、施設の卒業からコテージと呼ばれる共同生活の様子が描かれますが、自由な暮らしをしている時期で、まだ提供は少し遠い未来の話です。そのため、比較的明るいシーンが多く、どれも好きなシーンなのですが、あえてひとつあげるとすると、トモがサッカーをしているところに、恭子が差し入れを持って現れるシーン。卒業後の行き先を早く決めないといけないけど、どうするのかと尋ねると、ものすごいそっけなさで、恭子と同じところでいいよ」と答えるトモ。

ものすごく大事なことだから、本当はちゃんと真面目に答えないといけないのに、それがわかっていてもシャイで照れ屋のトモが、「そんな事どうでもいい」と言いたげな下手な芝居をしています。上手い俳優の演じる下手な芝居のシーン、これ好きすぎる。やりすぎないように、それでいてコミカルに。月並みですが、可愛いの一言に尽きます。

果たして、トモの本心はそれでも恭子には伝わり、恭子が嬉しそうに微笑む。2人の関係性、2人のキャラクター、2人の本心が、ドラマの中で最もわかりやすく表現されているシーンになっています。
このシーンがあるおかげで、この後すれ違っていく2人の関係が、より切なくなっていくのだけど。

ドラマだからこそ描かれるトモの姿

ドラマ版で私が気に入っているところは、トモが不器用ながらも、恭子の事をずっと大切に思っている事が、どのシーンにもしっかり描かれ、2人の心の交流が、物語の根幹となるストーリーとして扱われているところです。
原作は、キャシー目線のひとり語りなので、トミーの心情もキャシーの目線というフィルターを通して描かれます。キャシーは頭のいい女性ですが、トミーとの関係性において、本当に分かり合えていたのかは、釈然としません。キャシーが思っていたトミーの心情は、もしかするとキャシーの単なる思い込みなのかもしれない。

それがドラマ版では、すれ違っている時期のトモの様子も垣間見る事ができます。原作を読んでいて、1番知りたかったのが、まさにこの時期のトモの心情だったので、すごく新鮮だったし、嬉しい驚きでもありました。20代のトモは、後半の回になるまで出演シーンはそれほど多くないけれど、どのシーンでも、恭子の心の中にはトモの存在があって、ドラマ全体としてもトモの存在感がけして小さくないのは、やはり三浦春馬という役者をキャスティングしたからこそ実現できた事だろうと思います。

特にその存在感を観ている人に印象づけるのは、ドラマの前半に差し込まれている現代のシーン。トモと介護人のタマちゃんとのシーンです。

タマちゃんは、恭子にとってもトモにとってもよき理解者です。視聴者にとっては、ストーリーテラーの役割を果たしていて、視聴者を代表して(笑)、恭子と付き合わなかった理由を聞いてくれています。しかもご丁寧に、「美和の圧がすごかったから仕方ないよね」とこれまた視聴者を代表して(笑)、フォローもばっちりしてくれている。また、タマちゃんに提供が始まる事になり、後任の介護人を恭子にお願いするのはどうかと勧めるのもタマちゃん。2人を再会させたい視聴者の気持ちをよくぞ代弁してくれました!タマちゃんなしでは、このドラマは成立してなかったし、トモの心はきっと閉ざされたままだったのでは、と思います。

このシーン、ほんの数カットの短いシーンですが、春馬君は繊細な演技で、せつないトモの心情を表現しています。気怠そうなのは、術後で体調が優れないのもあるでしょうが、ここまでの人生で、何度も味わった後悔や絶望感で、心がすり減ってしまっているのを表している気がします。この時点では、文字通り身も心もボロボロのトモなのです。それでもまだほんの少し希望を持っていいのかな、と思い直す様子を本当によく表現しているなぁと。

タマちゃんに、なぜ恭子ではなく美和と付き合ったのか聞かれて、当時を振り返ったトモが、「まあ、いろいろ俺が悪いよ」とつぶやくシーンは特に印象的です。
優しいばかりで、自分に自信がなく、人間関係に不器用だった自分の事を「悪かった」と振り返る事ができるほど大人になったトモ。
その間なにがあって、どんな経験をしての現在なんだろうと、考えずにはいられません。
この一言は、恭子との再会を果たしてもう一度やり直して行くにあたり、トモが昔のダメ男ではなくなっている事、もう同じ過ちを繰り返さないであろう事を想像させてくれる、後半への大きな布石となっています。
こういう、核心をついているのにさりげないひとことの台詞は、春馬君の上手さが本当に生きるなぁと思います。

恭子と再会したトモは魅力全開

美和が「終わり」を迎え、恭子が2回目の提供を終えたトモの介護人になります。トモは恭子に介護人のリクエストをしてから、だいぶ長いこと待っていました。

恭子はなかなか踏み出せないでいたトモとの関係修復を、色んな人の後押しで、ようやく前向きに考えられるところまできました。

恭子はとにかく根暗なのです。
トモは正反対で、いつでもポジティブだし、前向きだし、希望を見出すのが得意。恭子はいつだってそんなトモに支えられてきた事を、ようやく受け入れる事ができた。でももう3回目の提供を待つ身のトモに残された時間は少ない。
今度は恭子がトモを支える番です。

なんですが。

やはり、ポジティブで明るいトモが、2人の幸せな時間を支えています。
再会までの、どこかなにかをあきらめてしまったような、なげやりで単なるいい人キャラのトモはいなくなり、昔のポジティブで諦めない、明るいトモに戻るのです。
2度目の提供を終えた身では、昔のようにキレのあるサッカーはできない代わりに、その情熱を絵に注いで、恭子をモデルにした愛に溢れた絵を描き、昔と違ってちゃんと愛情表現もするようになります。

色々乗り越えて来た今だからこその2人の関係は、本当に観ていて、「そうそう!これを見たかったのよ!」という気持ちにさせてくれます。なんなら、このままずっと2人を観ていたい。
幸せそうな春馬君の演技は、見てる私も幸せなんです(前にもこれ書きましたね)。

でも、ドラマですから、そうは問屋が卸しません。

トモの3回目の提供が決まります。

トモはどうしたらいいのか、自分がどうしたいのか分からずに、不安定になります。
恭子にそんなところを見せたくなくて、介護人をやめてほしいと言ったりする。
しかし、いろんな出来事を経て、最後は使命をまっとうする事を受け入れるトモ。
やっぱり、ここでも前向きだし、トモなりに希望を見出している気がします。
恭子がそばにいるからこそ、最後までポジティブで諦めないトモでいられるのです。 

この3回目の提供が決まってからのトモを、春馬君は本当に丁寧に丁寧に演じています。
日々揺れ動く感情、変わらぬ恭子への愛と気遣い、育った環境と使命に対する誇り、そういった諸々の感情を、時に爆発させて、時にうちに秘めて、時にぶっきらぼうに、時に弱々しく、時に清々しく、あらゆる感情表現を使って演じています。

3回目の提供の手術台に横たわるトモの表情は、運命を受け入れ、愛する恭子に最後に迷惑をかけないよう、「ここでちゃんと終わる」という強い意志が感じられる。それが今のトモにできる最高の愛情表現。
すごい演技だと思います。鳥肌がたちます。
目標に向かって、常にポジティブなトモの、最後の目標である「ここでちゃんと終わる」をしっかり見届けないと!という気にさせられる渾身の演技です。

バックに流れる、恭子とトモの最後の会話と思しきやりとりは、脚本家さんが渾身の力で紡ぎ出した言葉たちなんじゃないかと思います。この会話は、人間にはできないと思う。使命を持って生まれてきて、使命を全うする事を是として育てられたクローンにしかできない会話です。
お別れのシーンだけど、お別れの悲しさをも超えてしまう春馬君の演技、脚本、愛情あふれる恭子とトモの台詞のやりとり。このシーンは、本当に世界中の演劇関係者が嫉妬するんじゃないかと思うほど、クオリティの高いシーンになっています。

実は原作では、キャシーは介護人を交代してしまいます。
トミーの事を最後まで看取らないのです。
そもそもキャシーとトミーの関係は、恭子とトモのそれとは違うし、それもまた愛情の形だし、納得のいく展開ではあるので、どちらもありだとは思います。ですが、やはり映像で見せられてしまうと、エモーショナルに訴えかけてくる度合いは比べようもなく、春馬君ファンの贔屓目を差し引いてもなお、シーンとしてよくできていると思います。

原作のトミーと春馬トモ

原作とドラマの違いをあげつらう事に意味はあまり感じないのですが、ふたつだけ触れておきたいと思います。

トミーは、癇癪持ちの問題児の設定なので、いわゆる悪ガキキャラです。
優等生ばかりのヘールシャムでは浮いていて、からかいの対象ではあるのですが、それはどちらかと言うと、ガサツでワイルドゆえ、なのです。

一方、日本版のトモは、春馬君が演じる想定のあて書きで作られたキャラなので、癇癪持ちの問題児ではあるけれど、繊細で優しくて、普段の言葉遣いもけして乱暴な感じではない。
癇癪も、トモが生きる上で1番大切にしている「希望」が否定された時にだけ起こすのです。
トモは、無闇矢鱈にブチ切れる人ではないんです。
総じて、この作品に出てくるクローンの男性は、優しいタイプが多いのですが、春馬君演じるトモが、いわゆる男言葉を使わないのは、意図的な事なんだろうと思います。それが、トモの優しい雰囲気を醸し出すのに非常に効果を発揮しています。

それから、どうしても釈然としない設定は、トモのオナラ。
原作にもないこのヘンテコなトモの癖は、いったいなんの必然性があったのか。。。

あれほどよく考えられた脚本に、三浦春馬をキャスティングして、で、オナラいる?

誰かわかる方いたら、教えて下さい。プリーズ。

———

『わたしを離さないで』は、たしかに明るい物語ではありません。特にドラマ版は主人公の恭子が根暗なので、雰囲気も重いですし、春馬君も亡くなる役です。でも、クローンはただ可哀想なだけの対象ではないと思います。人間の平均寿命からしたら圧倒的に短い一生だし、育ち方も社会での扱われ方も倫理的にどうなのよ、という話をしだすと、この作品の本質を見失う気がします。短い一生でも、自由のない環境でも、プライドを持って精一杯生きているクローンたちの生き様は胸を打つものがあります。彼らの運命の非情さに注目してこの作品を見るより、生き方に少しでも共感しながら観て欲しいと思います。

春馬君の演じているトモはホントに素敵な役だし、とことん根暗な恭子の頑なな心を開かせ、幸せに笑わせる事ができるという意味で、一種の王子様タイプの役とも言えます。春馬君の入魂の演技もすばらしくて、春馬君の良さを存分に引き出してくれている作品です。
まだハードルが越えられないでいる方の中から、わたしの拙い文章で、1人でもこの作品のファンが増えてくれる事を願いつつ。

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