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自己責任論が蔓延する現代、心が疲れたあなたに藍坊主という処方箋

なんか、私もみんなも疲れてる?

最近仕事で疲れているのか、なんだか世の中が「悪いもの」に思えてしまっている。

SNSを覗くと誰かが「間違っている」、「こっちが正しい/こっちは正しくない」、「絶対ありえない」、「自己責任だろ」。皮肉と批判に溢れてる。

わかるよ。その事象だけを取り上げてみると、確かにね。
別にそう呟くことが悪いわけじゃない。各々が思ったことを発信しているだけで、悪意がないものがほとんどだ。

あるいは「断罪」したほうがなにかが伸びたり、燃えたりして、都合のいいことがあったりするんだろう。それによって満たされる人、救われる人もいるのかもしれない。
だからそれはそれでいいんだ。

わたしだってそんな発信をしかけることもある。だけど、この発信が誰かにとって居心地の悪い気持ちになることが怖くて、結局は送信ボタンを押せずに終わる。

このたぐいの言動に出会い続けた結果、心の叫びが聞こえた気がした。少しずつ擦れて、目に見えないくらい小さな穴がたくさん開いた心が、情けない音で尻すぼみになりながら叫んでいる音。
その発信が自分と直接関係のあるメッセージでなかったとしても、そんなネガティブな言葉を目にするたびに、なぜかダメージを受けているような気がする。

会社でも最近、擦り切れそうなことがあった。
会社にとって、重要度も緊急度も高い(のに誰も手をつけなかった)案件について提案しても、「何それ?」みたいな顔で、聞いてるのか聞いてないのかスマホを見ながら上の空な社長。

事前に前提の話も共有していたはずなのに、乗り気じゃない社長を見て「そもそもなんでこの手法使ったの?」と“乗り気のなさ”に便乗してくる幹部。

せっかくチームみんなで苦心して生み出したのにね。
会社のためになると思ってたのにね。
意見があったらどんどん言ってください、って言ってなかったっけ。
あれ、わたしってなんでこの仕事してたんだっけ?
みたいな。

そんな近況だった私が、1年ぶりに観に行った藍坊主のライブが昨日あった。百景’24という年末の恒例イベントだ。

藍坊主(あおぼうず)について

藍坊主は来年で25周年を迎えるロックバンドだ。
おもにボーカルとベースのふたりが、言葉通り精魂込めて作った曲の総数はおよそ170曲あるらしい。
大学のころに出会い好きになって十数年、
おそらく世に出ているほとんどの曲はわかると思う。
ライブも、社会人になってからは毎年のようにツアーやイベントを回ってきた。
そしてお気に入りの曲も、年代で変化してきた。
最初はジムノペディックから入り、ハローグッバイ、コイントス、社会人になってからはいわし雲、降車ボタンを押さなかったら、母になってからはバタフライ…
一介のファンとしても、ほんとうにいい曲が多くてここに上げきれないのがもったいないと感じるくらいだ。

藍坊主は現代に必要な栄養素

そんな中、今日のライブで確信したことがある。
藍坊主の曲は、今こそ、多くの現代人に必要な栄養素、だということだ。

先ほど述べたとおり、最近の会社での軋轢や、SNSを消費することでの、精神の消耗が激しかった私に、今日のライブはかなり「効いた」。
精神の消耗とは、言い換えれば『自己効力感の低下』や『苛烈を極める自己責任論に対するネガティブな感情』として表現できるかもしれない。

なぜそれが「効く」のかというと、藍坊主の曲は、「ありのままでいたい自分」と「そうでいられない自分」、両方を肯定してくれているように感じるからだ。たとえば、こんなふうに。

神様は見てるよ 見てなくても知ってるよ
君や僕がどれだけ 頑張ってきたかってことを
神様がいなくても 見捨てられてたとしても
西日のスーパーの脇で 僕ら静かに暮れてく

アルバム「燃えない化石」より「魚の骨」(2019)

魔法は溶けて消えた 影法師のように
リアルを言い訳にすんなよ リアリティーからも逃げて
誰でもいいよ 誰か夢を語ってよ 大声で

アルバム「ココーノ」より「向日葵」(2014)

ありのままの君でいいなんて、俺は言わないぜ。
そうして生きていけないから君に、俺は歌うんだよ。

うまく、それらしいことばっかいってりゃ、とりあえずいい感じ。
そうだろ?濁った本当なんかより、フィクションのほうがいい。
(中略)
誰か舌打ちしてる音が聞こえた気がした。
どうして、わざわざすり減るために、生きなきゃなんねんだろう。

アルバム「the very best of aobozu」より「忘れないで」(2011)

彼らの曲には、「こうしなきゃならない」とか「これだけが最高」みたいな言い回しが(私が感じる上では少なくとも)ない。「頑張ろう」みたいな安直で直接的な言葉もないし、誰かをあからさまに「励まそう」みたいな歌詞もない。

おそらく、普通だったら見逃してしまうような「当たり前すぎる」事象を通して、自分と向き合い続け、自分達が思ったこと、感じたことを多種多様な曲のアプローチを通して伝えているんだと思う。

先にあげた曲などは、自分たちや人が社会生活をする上での生きづらさや閉塞感みたいなものが、歌詞とメロディーを通して、ありありと浮かび上がってくる。共感というか、ある日ふと気づいたささくれのような、ちいさな出来事を思い出させるような、臨場感あふれる空気感。

おそらくわたしのような藍坊主のヘビーリスナーは、そんなささくれと歌詞がリンクしている人が多いように思う。だから必ず「お気に入りのフレーズ」があるのではないか(そしてけっこう、リスナー同士で共通しているようにも思う)。

真っ直ぐな心を忘れないで

言いたいのは、例えばわたしのような、別に見なくてもいいSNSをついつい覗いてしまって、その0か100かみたいな争いに心が巻き込まれて小さな傷を負ってしまった人。

あるいは、「無礼講」とか「もっとみんなの声を聞かせて!」みたいな“すばらしい傾聴力”がありそうな言い分を素直に聞き入れて、声を聞かせたらシャットダウンされて心の行き場がない人。

そんな人が藍坊主を聴いたら、これまで生きていく上で「捨てざるを得なかったもの」を取り戻せる可能性があるのかな、と思う。

何かに対して冷笑したり、からかうことで「誰が上」とか「あいつより正しい」とかこねくりまわしている社会で、
真正面から向き合っている人がいること。それを笑わない人がいること。
いいことも悪いこともグラデーションで、それが豊かさだということ。

自分達では見過ごしてしまうものを、
藍坊主は拾って届けてくれる。ような気がする。

(もちろん、ネガティブな曲ばかりじゃないし、「マザー」や「ウズラ」のような母性を思い起こさせる曲もある。初期のパンク感の強い曲などは若さと勢いが漂うし、「テールランプ」のようなストーリー調のもの、もはや日本語ではない独特の曲もあるし、キーコードのない曲もある。そこはもちろん好き好きでよいし、長いこと続けてきてくれるから、バリエーションが幅広くあるのも彼らの特徴だと思う。)

最後に、ここまで興味を持って読んでくれた奇跡のようなあなたに、私が個人的に「お気に入りのフレーズ」をいくつか紹介して終わろうと思う。ここまで読んでくれてありがとう。あなたが少しでも楽に生きられる術を見つけてほしい。お互いなんとかやっていこうぜ。

赤信号で止まるように 僕らは止まれないんだよな
パーでチョキに勝つ方法を 全部パァになっちまってもまだ探してる
(中略)
すげえことなんて もうあんまない気もする
でもまだどっかで僕は待っちまってるんだよ

「降車ボタンを押さなかったら」(2015)

自分でも自分を 必要ないよと 見捨てないように 殺さないように
雁字搦めの糸を 運命の糸へ 染め変えるため 藻搔いてる

君のこと使えないとか 君のこと使えるとか
そう言われてさ疼く心の奥 それはね 優しさ きっと

「ダンス」(2018)

ひっぱるほど縮んでゆく、かた結びのような愛と、
広がるほど薄まってく、みんながみんなを愛そうとする心。
(中略)
あさやけのうた、絶望をすべて癒せるほど、
この世界は安っぽくできてないだけ。

「あさやけのうた」(2010)

余談だが、最近読み漁っている「働く」ことについての本と藍坊主の曲との関連性についてシナジーを感じたところもあるので、余力があるときに書けたらいいなと思う。社会人になって十数年、ちょっと思うことも増えたんだ。


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