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出家遁世とディストピアSF~カスガ『コミケへの聖歌』の感想【ネタバレあり】~(2)
【注意】本稿にはカスガ『コミケへの聖歌』、小松左京「地には平和を」のネタバレが含まれています。
〈コミケ〉へ行くことを決意した悠凪は、母とこういう会話を交わす。
「本物の医学ってのは、素人が数年ばかり徒弟奉公を積んだからって、数冊ぽっちの本を丸暗記したからって、どうにかなるもんじゃないのさ。あんたももう少しすれば、嫌でも気づくはずだよ。
わたしらにできるのは、昔の本に書かれた内容を金科玉条のように鵜呑みにして、ただただ経験頼みに、行き当たりばったりな治療を繰り返すだけ――(略)。未開人の祈禱や呪文と、なんら変わりゃしないんだよ(略)」
(略)
「だったら、なんでお母さんはクリハラ診療所を続けているの? わたしはなんのために医者になる修行をしているの?」
「そんな張りぼての医者や診療所でも、存在してるだけでみんなが安心するからさ。今もイリス沢の中でだけは、昔と同様の文明が保たれてると信じてくれる。それなのに、クリハラ診療所がただの〝病院ごっこ〟のための場所だと知られたら、どうなると思う? その他の〝ごっこ遊び〟の嘘も全部ばれてしまう。もう文明なんて存在しないことに、みんなが気づいてしまう」
母親は《イリス漫画同好会》を「落書き遊び」として軽蔑している。だが、同好会が学校の存在理由さえ知らない者による〈部活〉ごっこだったとするならば、イリス沢自体が内実を伴わない文明ごっこであることが暴露される。
神林長平が選評で、
最後は「コミケへの聖歌」、毒母の束縛からの独り立ちの瞬間を描く。そのとき主人公は自分たちがやっていた「部活」もまた、母の価値観と同じだと悟ったはずで、いまやコミケは聖地ではなく墓地だ。それでもそこを目指して旅立つのは、現実逃避を超えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。(略)
と書いているのは、この場面を指してのものであろう。私も最初はそう感じた。
けれども再読して、他の可能性を考えられなくなる状況からわが身を引き剥がす働きが想像力の力だとするのならば、本書の中でも「真の創作活動」はなされていると考え直した。ただしそれは、悠凪たちの描くマンガの中にはない。
実は本書には、登場人物の想像力が自己言及的に働く場面が3カ所ある。ひとつ目は、もしも自分たちが旧時代の女子高生だったらどうするか、と4人が会話する場面だ。茅は、そこでも自分はマンガを描くだろうと語り、そのマンガの内容をこう説明する。
「いいえ。わたしたち四人が文明が崩壊したあとの世界で暮らしていて、森の奥の廃屋を〈部室〉に見立てて、〈部活〉をやっている話です。そして、その話の中ではヒナコ先輩が〈コミケ〉へ行こうと言い出して、ゆーにゃ先輩が反対して、いろいろな事件が起こるんです」
ふたつ目は、比那子に区切られた期限の日、すでにスズと茅の2人だけでも〈コミケ〉へ行くと告げられた悠凪が、既視感を覚えるところから始まる。この時空は繰り返されているのではないか、と。
その続きを悠凪はこう想像する。彼女はイリス沢に留まることを選択し、スズと茅を見送る。比那子とは疎遠になり〈部活〉は自然消滅。いつまで経っても2人は戻ってこない。やがて悠凪は診療所を継ぎ、産まれた娘にまた継がせようとする。40年が過ぎ孫娘を抱きながら、悪い人生ではなかった、と回想する。しかし心のどこかでは、あの日の選択に後悔の念をつのらせている。――と、そこへ何の前触れもなくスズと茅が戻ってくる。それも40年前の姿で。すると悠凪自身も40年前の姿に戻っている。
そう、今まさに、わたしは四十年前の自分に立ち返ってきたのだ。この瞬間が、もう一度あの選択をやり直すチャンスだった。
わたしはふたりに答えた。
「明日は、わたしも見送りに行くわね――一緒には行けないけれど」
この時の円環の中では、わたしが《廃京》へ旅立たないのが宿命であり、必然であるのだ。この一瞬があと何万回繰り返されたとしても、わたしは誤った選択肢を選び続けるのだろう。
そしてみっつ目は、阿日彦の備忘録である。阿日彦には月輔という弟がいたが、内乱に際して中央政府の兵士として出征する。その後、阿日彦に叛乱勢力のスパイが接触してくる。月輔は叛乱勢力の捕虜となっており、彼を通じて阿日彦の反政府的心情を察知した叛乱勢力は、中央政府が開発した致死性のナノマシン(これが赤い霧の正体)の奪取を阿日彦に依頼する。阿日彦の父が持つ中央政府とのパイプを逆用しようというのだ。表向きはスパイの依頼に従う阿日彦。だが本人には別の思惑があった。ナノマシンを手にしたら、中央政府にも叛乱勢力にも渡さず世界を人質とすることで、両者を停戦させるのだ、と。
備忘録は、明日阿日彦が《廃京》へ旅立つところで終わり、それを読んだ悠凪は〈コミケ〉へ行くことを決意する。しかし比那子が明かしたところによれば、スパイが登場するあたりから以降はすべて阿日彦の創作なのだという。
どれもこれも、「作品」となる以前の埒もない妄想と言える。しかしそれは本当に埒もないものなのだろうか。私は、これらが本人にとっては切羽詰まった状況で想像されたことに意味を見出したい。
イリス沢の中でも低い身分の茅は、この時代に比べればずっと豊かな旧時代で、あえてディストピアにいる自分たちをマンガに描くという。悠凪は自分は〈コミケ〉へ行けないだろうという断念の中で40年後を想像する(彼女はこの時点では、阿日彦の備忘録も読んでいないし、クリハラ診療所の真実も知らない)。そして阿日彦は弟を失い病に倒れ、自分の死期が近いことを知りながら、誰かに読まれるあてもない想像を書き続けた。
こうした想像がイリス沢の〝現実〟を少しも変えないことは、想像した本人が一番わかっていたろう。こんなことあるはずないさ、という呟きが最後には付け加えられるはずである。
私がここで思い出すのは、小松左京「地には平和を」である。
「地には平和を」では、ある人物が歴史を改変し、第二次世界大戦で日本がポツダム宣言を受諾せず本土決戦に突入した世界を創造するが、時間警察によって阻止される。〝現実〟では敗戦から十数年が過ぎ、改変世界では少年兵として米軍と戦っていた主人公は就職し幸せな家庭を築いている。しかし彼は偶然から、改変世界で自分が所属していた軍の部隊章を見つけてしまう。
彼は突然ぼんやりして、それを手ににぎりしめた。一瞬――ほんの一瞬、奇妙な冷たい感情が意識の暗い片隅を吹きぬけた。陽がかげったように、周囲が暗くなったように見え、この美しい光景が、家族の行楽が、ここにいる彼自身、いや、彼をふくめて社会や、歴史や、その他一切合切が、この時代全体が、突如として色あせ、腐敗臭をはなち、おぞましく見えた。(略)
この短編では、われわれの知る〝現実〟とは違うオルタナティヴな歴史が想像される。そしてオルタナティヴな歴史は実現することなく間違ったものとして葬られる。だがそれによって〝現実〟が唯一無二の存在として肯定・強化されるかといえばそうではない。むしろ逆である。ここで行われているのは、こんなことあるはずないさ、とオルタナティヴな歴史をあえて否定するという身振りによって〝現実〟の虚構性を裏側から暴くという逆説的な思考実験なのだ。
茅も、悠凪も、阿日彦も、埒もない妄想から我に返ったとき、誰に教えられるまでもなくイリス沢の虚構性を直感していたと思う。(続く)