宮西建礼は〝科学小説〟の星である

「紙魚の手帖」vol.12に掲載された宮西建礼の新作「冬にあらがう」を読んだ。

私が宮西作品を読むのはこれで4作目だが、今回もこれまでと同様、素晴らしい小説だった。

舞台はほんの数年後。人類史上まれに見る火山の大噴火のため大量のエアロゾルが大気圏に放出され、世界的な寒冷化と不作が起こり、食料生産国は農作物の禁輸に踏み切る。ただでさえ食料自給率が低い日本では、噴火以前からの政府の無策により、全国民が食べていける備蓄はわずか数カ月分と判明する。

そのとき科学部に属する高校生が、植物に含まれるセルロースをグルコースへ変えることを思い立ち、単に変えるだけでなく工業化は可能かと実験を始める。ストーリーの約35パーセントは(頁数をもとに計算してみました)、そのための試行錯誤に費やされており、こここそが作品の肝となる。

理系の知識はあるがとりたてて天才でもない高校生が地球規模の危機に立ち向かう、というストーリーは「もしもぼくらが生まれていたら」「されど星は流れる」と共通する。本稿では仮にこの3作を「高校科学部三部作」と呼ぶことにする。

さて、たいていのSFというのは、どれだけ厳密に科学知識に基づいていようと、どこかしら一カ所二カ所でウソを噛ませて成立しているものだ。〝高校生が地球規模の危機に立ち向かう〟というストーリーなら、なおのことどこかでウソを吐かなければならないだろう。

ところが宮西は、そのウソを極力圧縮しようとしている。「高校科学部三部作」は、世界設定に関してある前提さえ受け入れれば、あとは現実の高校生でも可能な(あるいは可能と読者が思える)実験・シミュレーションを通じてストーリーを展開する、という基本線を律儀なまでに守り続ける。そこには奇天烈斎の残した大百科もなければ、(たぶん)現在のレベルから跳躍した新技術もない。

たとえば「冬にあらがう」の終盤で出てくるある科学トピック。話が出来すぎなので、流石にこれはフィクションだろうと思ったのに、検索したら該当するものらしい記事が出てきてびっくりした(あるいはこの記事がヒントになって「冬にあらがう」が書かれた可能性もあるが)。

結果としてそういう小説になってしまうのか、それとも作者本人が意図してやっているのか、そのへんはわからないが、どちらにせよこのストイックさは大変なものだ。

私は以前、「されど星は流れる」について書いた文章の中で(注:リンク先の「シミルボン」は2023年10月1日24時で閉鎖となります)、

科学によるわれわれ自身の認識の変化。そしてよりよく生きるための可能性の探求。これこそがSF的想像力でなくて何であろう。たとえ日常からの飛躍が少なくとも、その点において「されど星は流れる」は、まぎれもなくSFなのである。

と書いた。この考えはいまも変わらない。しかし、このストイックさを前にすると、私は「高校科学部三部作」をSFというより、もっと言葉本来の意味での〝科学小説〟と呼びたい誘惑に駆られる。

それはあるいは、現代SFが成立する以前への先祖返りなのかもしれない。にもかかわらず三部作は、世界への鋭い視点により紛れもなく現代の小説として成立しているのだ。これは実に驚くべきことのように、私には思える。

【蛇足】星新一は大学時代、「冬にあらがう」の高校生とまったく同じ研究をしていました(『SF作家オモロ大放談』より)。


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