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出家遁世とディストピアSF~カスガ『コミケへの聖歌』の感想【ネタバレあり】~(3・完結)

【注意】本稿にはカスガ『コミケへの聖歌』のネタバレが含まれています。

『コミケへの聖歌』は、ディストピアSFの形をとった『方丈記』であり、本稿のタイトルの意味するところでもある。と言ったら読者諸賢は笑うだろうか。

そもそものきっかけは『コミケへの聖歌』を読んでいて、以下に引用するくだりが『方丈記』を思い出させたことだった。最初はわれながら他愛のない連想だと思った。しかし考えれば考えるほど、この想念は強まって、とうとう抜き差しならないところまで来てしまった。

 イリス沢における小説本は、不規則なインクの汚れが染みついた紙束としての利用価値しかなく、その意味では大いに重宝されていた。遺跡や廃墟から掘り出されてきた書籍や雑誌は、数か所の紙屑置き場にまとめて積み上げられ、人々は日々の生活で紙が必要となると、そこから適当に破り取ってきた。破り取られたページは、壁や窓の修繕に、道具の補修に、あるいは包み紙や焚きつけにと、様々な用途に使われた。厳寒の季節はくしゃくしゃに丸めて衣服の下に詰め込めば、保温材にもなった。誰もその中の文字の並びに価値を見出しはしなかった。わたし以外は、誰も。

いまさら私が知ったかぶりで『方丈記』を講釈しても仕方ないが、同書の前半は源平の争いが続く時代、平安京が辻風・大火・地震・疫病・飢饉に燃料の枯渇と災厄のオンパレードに遭い、物質的にも精神的も荒廃していくさまを書き記している。安良岡康作による現代語訳を引用する。

身分の低い、下賤な者や山に住む木こりらも、食糧の欠乏から、生きる力をまったく失い、そのため、彼らが供給する薪までもが都の中から少なくなってゆくので、頼りにする所のない人たちは、自分の家をこわして、市に出ていって、それを売る。(略)けしからんことには、その薪の中に、赤い丹が塗られ、金箔などが所々に見える木がいっしょにまじっているというので、詮索してみると、何ともしようなくゆきづまった者たちが、古寺に行きついて、仏像を盗み、お堂の器具類をこわして取って来、割ったり、砕いたりしたのであった。五濁十悪のあさましい末世に生まれあわせて、このような、情けない行為を見たことでした。

すべては生存の必要という一語に集約され、人々はただただそのために苦しむ。紙や木に込められた文化的な刻印は一顧だにされない。再び安良岡訳を引く。

 だいたい、世の中が生存しにくくて、わが身と住居が頼りなく、はかない状態は、やはりまた、上に述べた災害の時の通りである。まして、環境により、境遇にしたがって、心を苦しめることは、いちいち数えることができないのである。

この一節に続いて、本稿の冒頭にも引いた「世に従へば、身苦し。従はねば、狂ぜるに似たり」と続くのである。こんな折り、宗教だのマンガだのに心を使うのは「狂ぜるに似たり」以外の何物でもない。

それならば、まだ生存が約束されている「世に従」う方が合理的ではないのか。

(なお『コミケへの聖歌』には何度か「合理的」という言葉が出てくるが、それが強者の論理という含意を持たされ否定的な文脈で使われていることは注意されていい)

その合理性を認めたくないというのなら、自分たちを狂と断じる五濁十悪のイリス沢を離れ、鴨長明のように出家遁世できないだろうか。

しかしそれは容易ではない。阿日彦が森で見つけた秘密の書庫や、悠凪たちの〈部室〉は、長明の結んだ日野の庵に似ているけれどイリス沢の磁場からは完全に自由ではない。阿日彦は『方丈記』のような備忘録を書いたが結局ナグモ屋敷で息を引き取り、さらにその死の真相も備忘録の存在もイリス沢の論理によって隠蔽された。

〈部室〉に集う悠凪たちにもイリス沢の価値観が抜きがたく内面化されている。何より〈部室〉が〈部室〉たり得ているのはナグモ家の跡取りである比那子が関係しているからであり、どれだけ浮世離れして見えようとも〈部室〉はイリス沢の政治経済のシステムにがっちり組み込まれているのである。

ここでまた別の本を持ち出すのをお許しいただきたい。堀田善衞の『方丈記私記』。堀田が自身の戦争体験をテコに『方丈記』を読み解いた長編エッセイである。

堀田の言うところをきわめて――きわめて乱暴にまとめると以下のようになる。

堀田は『方丈記』でこれだけ災厄が描かれたにもかかわらず、千載集や新古今集といった同時代の和歌集にこうした災厄がまったく詠われていない点に着目し、その原因をいわゆる本歌取りの手法に求める。本歌取りとはつまるところ過去の作品のみを題材として歌を詠むことであり、現在起きている出来事を対象とせず黙殺するということである。

問題はただ和歌の技法にのみ留まらない。本歌取りは当時の貴族の世界観そのものとして内面化されていた。外の世界では何の意味もない先例と有職故実に従っていればよいとする考え方が、彼らをして現実から目を背けさせたのである。堀田はこれを指して「生活自体がフィクシオンと化した」と書く。

そうして、鴨長明の出家の動機とは、巷間言われるような無常観などではなく、フィクシオン化した生活へ対する苛烈なまでの批評眼だった。

古典文学研究の立場からして堀田の『方丈記』観がどれほど妥当なのか、私は判断する材料を持たない。というか、私自身の『方丈記私記』に対する理解自体が正しいのかもよくわからない。

にもかかわらず、実は数年前『方丈記私記』を読んだときは何の感銘も覚えずそのままうっちゃっておいたのに、『コミケへの聖歌』を読んだいま、次のようなくだりが私の中でシンクロして響くのである。(余談だが、こういう現象こそ読書の醍醐味だと思う)

 歴史と伝統に本歌取りをすることのみを機能とし、伝統的権威として、存在するから存在し、存続だけが自己目的と化したものを、どう処理するか。
 存在し、存続だけが自己目的化したものに、他に対する想像力はありえない。
 人民の側としても、災殃にあえぎ、いやたとえ災殃にあえがなくても、彼らもまたその日その日を食いつなぐだけの、ここでも存続、生存だけが自己目的と化している。
 存続、生存だけが自己目的と化したものに、ここでも他に対する想像力はありえない。

 この本歌取り宮廷美学と相対して、私は、彼らの宮廷の美を認める者だ、認めざるをえない、そうして、しかもなお私は、認めた上で長明ととともにかかる「世」を出て行く。無情の方へ行く。それが逃避であると見える人は、この国の業を知らない人なのだ。

〈部活〉も、クリハラ診療所も、いやそれらを包むイリス沢自体が、平安貴族と同じくただ過去を真似るだけの本歌取りのフィクシオン化した生活だった。「かかる『世』を出て行く」こと。内面化されたフィクシオンな価値観を捨て去ることが出家遁世の真の意味だとするのなら、ここにおいて鴨長明と〈コミケ〉を目指して旅立つ悠凪は同じ地平に立っていることになる。〈コミケ〉への旅は《イリス漫画同好会》の延長に見えて実はまったく別次元の出来事なのだ。

物語の最後、退路を断った悠凪は自分で自分の髪を乱暴に切り落とす。そこに剃髪のイメージを見てしまうのは深読みに過ぎるだろうか。(完)

【参考・引用文献】
・カスガ『コミケへの聖歌』早川書房、2025年
・小松左京・著、東浩紀・編『小松左京短編集 東浩紀セレクション』角川e文庫、2016年
・安良岡康作『方丈記』講談社学術文庫、1980年
・堀田善衞『方丈記私記』筑摩書房、1971年


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