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出家遁世とディストピアSF~カスガ『コミケへの聖歌』の感想【ネタバレあり】~(1)
【注意】本稿にはカスガ『コミケへの聖歌』のネタバレが含まれています。
世に従へば、身苦し。従はねば、狂ぜるに似たり。
第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の、カスガ『コミケへの聖歌』を読んだ。1回読んだあと、初読の際連想した文献を読み直し、数日おいてまた本書を再読した。
大賞を受賞してしかるべき優れた小説だと思うし、いろいろと考えさせられた。まただからこそ感じた不満もあった。本稿ではその感想を、思いつくまま書きつらねてみたい。
うまく言語化できていない箇所もあり、感想の中には論理の飛躍や矛盾があることも自覚している。しかし、それを含めて急ぎ感想を書きたい衝動に駆られたこと自体が『コミケへの聖歌』への高い評価だと理解していただければ幸いである。むろん飛躍や矛盾に対する指摘があれば真摯に受け止めたい。
例によって書き始めたら長くなってしまったので分載とする。たぶん3回で完結する見込みである。
まず本書の設定とストーリーを確認しておこう。
2034年、大規模な気候変動が原因で全世界的な飢饉が起こり、第三次世界大戦が勃発。そのころ日本ではヒノモト新体制なる政治勢力が権力を握り、自由と知的活動の弾圧と引き換えに国民の生存を約束し、国民もそれを支持する。反対勢力との内戦が起こり、さらに赤い霧と呼ばれる致死性物質が東京を覆い、体制派も反対勢力も滅亡。この過程で社会インフラもそれまでの記録もほとんどが失われる。こうしてかつて繁栄を誇っていた時代は旧時代と呼ばれるようになる。
物語はヒノモト新体制をリアルタイムで経験した世代から見て曾孫の時代。秩序が崩壊し野盗が跳梁跋扈する山中のイリス沢集落ではナグモ家を頂点とする農本主義的封建体制が敷かれ身分は固定化、下層民は労働の成果を収奪され、女性は労働力かさもなくば子孫を残すだけの役割と見なされている。
だがイリス沢には、たまたま残されていた旧時代のマンガに魅せられた比那子・悠凪・スズ・茅という4人の少女がいた。彼女らはマンガから得た知識を元に貴重品の紙を使って肉筆同人誌を始め、《イリス漫画同好会》を名乗り集落はずれの廃屋を改造して〈部室〉とし、〈部活〉ごっこを始める。
そんなある日、部長格の比那子が東京のコミケに行きたいと言い出す。むろんコミケが開催されている保証はない(というか可能性はゼロに近い)。それ以前に交通機関も宿泊施設も、道路だってろくにない東京への旅は危険以外の何物でもない。悠凪は現実的観点から反対するが、3日以内に「わたしもコミケへ行きたい」と言ったら比那子に従うと約束させられる。
その後の3日間で悠凪はさまざまなエピソードを通じイリス沢のみならず自分自身も持っていた欺瞞に気づかされる。そして比那子の大伯父・アビヒコが遺した備忘録を読んだことがきっかけでコミケに行くことを決意し仲間に告げる。
しかし悠凪の前に母親が立ちはだかる。悠凪の家は曾祖母の代から集落唯一の医者であり、彼女も跡を継ぐことを強制されていた。しかし悠凪は一族が代々継いできたのは単なる医療という名の幻想であり実効性をほとんど伴わないことを知り、これを拒否。母親は悠凪を勘当する。退路を断つ覚悟を固めた悠凪は、仲間と共にコミケを目指して旅立つ。
この作品の巧みさは、第一に主要登場人物の配置にある。ナグモ家の跡取り娘である比那子、最下層の作人の娘の茅、元は集落の住人ではなくナガレ者と呼ばれる猟師の娘スズ。そして主人公兼語り手の悠凪は、医者の家系ということで特別扱いされ集落では数少ない知識人層に属する。上・中・下に外と、イリス沢のすべての階層が〈部活〉の中に集約されており複数の視点から作中世界を見ることを可能としている。
注目すべきは、4人の間にはコミケ行をめぐって温度差がある点だ。それはそのまま4人が属する階層の差でもある。集落は階層をめぐってさまざまな欺瞞と搾取に満ちているが、階層の違いは4人の中に内面化されていて、本人は自覚しないままになっている。このあたりの絡繰りは茅の、
「(略)先輩には、貧しさがどれだけ人間の心を歪ませるか、まるでわかってません。他人から、『こいつは下等な人間だろう』と思われ続けていれば、たとえ本人がどんなに抗っても、下等な人間になるしかないんです」
という台詞に端的に表れている。
集落のシステムに対して一見批判的な悠凪も例外ではない。先の台詞に衝撃を受けた彼女は続けてこう述懐する。本稿では省略するが、この述懐に至るまでには周到に伏線が張られていることは明記しておく。
わたしは、今まで茅を見下し続けていた傲慢を、所詮はマンガがうまいだけの作男の娘だと軽んじ続けていた傲慢を、それでいて、自分だけは他人の傲慢を糾弾する資格があると思いあがっていた傲慢を、泥の中に這いつくばって謝罪し、この貧困と差別に抗い続けた純粋な魂に、赦しを乞うべきであったのかもしれない。
この茅と悠凪のやりとりは、本書の中でもっとも優れた場面だと私は思う。イリス沢の外から集落自体を批判的に見ているつもりだったのはひとり悠凪だけではない。彼女に感情移入していた読者もまたそうである。だからこそこの場面の衝撃は深く、読者も自分の立ち位置を問い直さざるをえない。しかも悠凪はこの述懐をスズに打ち明けようとするが、体面に邪魔されてついに機を逸してしまう。ここがまたイヤに感じにリアルだ。
4人の中で、比較的事態を客観的に見られているのはイリス沢の生まれでないスズであろう(しかし彼女もイリス沢の住人をうっかり蔑称で呼んでしまう場面がある)。イリス沢の現状を改善するというテーマで悠凪と会話する場面で、スズは悠凪の提案をみな否定したあと、こう言う。
「もし、うちがナグモ屋敷の当主になったら――まず、イリス沢に〈学校〉を作りますね。そこで子供たちに、少しでもイリス沢がよくなる方法を考えさせます。その子供たちの何人かが先生になって、その先生が教えた子供たちが大人になる頃には、イリス沢も少しは変わってるんじゃないでしょうか?」
長期的にはおそらくスズの言う通りしかないと思われる。しかし悠凪はスズの言うことを理解できない。彼女の論旨を理解できないのではなく、そもそも〈学校〉が何なのか知らないのだ。悠凪が〈学校〉とは「子供に文字の読み書きを教える施設」だと気づくのはアビヒコの備忘録を読んだときで、本文にして実に37頁もあとのことである。
悠凪は旧時代のマンガから〈部活〉や〈授業〉という概念を学び制服のコスプレまでしていながら、その前提たる〈学校〉の存在理由については無知なままだった。これが相当に倒錯的な事態であることは論を俟たない。
本稿では悠凪に話を絞ったが、主要登場人物の四者四様に死角と錯誤を設定し、その積み重ねからイリス沢というディストピアを立体的に描く技術は非常に高い。読者がイリス沢に恐ろしさを覚えるとすれば、物理的な物資の不足や搾取の構造に対してというよりはむしろ、どんなにひどい環境であってもそれが当たり前となったときに他の可能性を考えられなくなる人間の想像力の脆弱さに対してであり、そこへつけこんでフィードバック的に自身を強化しようとする社会システムの自走性に対してなのである。
この点に関する洞察と描き方の濃やかさは、〝歪んだ社会vs社会から自由な個人〟というありきたりのディストピアSFの図式をはるかに凌ぐ。(続く)