見出し画像

サカナクション「SAKANAQUARIUM アダプト TOUR」日本武道館公演 感想:適応と妥協

今から先日のサカナクションの武道館公演の感想と、私のサカナクションに対する雑感と、サカナクションが数年に渡ってトライしてきたこと、そして今回の「アダプト」プロジェクトについてなどを書き連ねる訳だが、最初に断っておくと私は死ぬほどこのライブを楽しんだ。特に思い入れの深い「壁」が披露されたあの数分間は生み出された音の壁の迫力も相まって近年でも随一の音楽体験だった。このnoteは戯言のようなものでしかないです。

音楽についての知識がほぼ無かった頃、スクールオブロックで流れる音楽を片っ端からYouTubeで調べてTSUTAYAや図書館でアルバムを借り漁っていた頃に出会ったのがサカナクションで、新宝島が出る前、「グッドバイ」のリリース時に山口一郎がラジオで泣いた時期だった。「電子音とロックミュージックの融合が生む良い違和感」というまさに山口一郎が標榜していた魅力に惹かれ、「sakanaction」「kikuuiki」といったアルバムをレンタルして愛聴していた。マーケティングについて、音楽のルーツを辿るという営為について、ライブ演出について、音楽で食うということについてなどを赤裸々に語っていた毎週のラジオも欠かさず聴いていたし、新宝島のMVを真似て階段を下るなど中学生の私にとってサカナクションはかなり大きな存在だったと言える。高校生になり洋楽や90年代の邦楽、日本のインディーバンドなどを積極的に聴くようになり頻繁に聴くことは無くなったが「834.194」のCDは買ったし、とにかくサカナクションは自分の中で少し特別な、というか思い入れのあるアーティストである。

そして2021年になりサカナクションは「アダプト(適応)」というキーワードを掲げて新たな試みを始めた。ライブと音源制作という2本柱の内、片方が失われたコロナ禍における「バンド」という形態がどう時代に適応するかをその活動を持って示す試み、である。この「適応」というキーワードはコロナ禍を経て突然表れたものではない。「フォークとテクノを合体させる」というバンド当初の目論見も異なる音楽同士を「適応」させ合うものだし、サカナクションほど自分たちのやりたい音楽性とタイアップ先に「適応」させ擦り合わせることに腐心してきたバンドもいないだろう。
そしてサカナクションはリスナーに対しても「適応」を促し続けてきた。サカナクションが日本のバンドシーンのトップランナーだった数年前は春夏秋冬音楽フェスティバル全盛期である。四つ打ちの多用、大勢の観客が同時に手を挙げ、腕をふり飛び跳ねる。果てには暗黙の了解で振り付けが存在する曲まで…。サカナクションは「アイデンティティ」「バッハの旋律を夜に聴いたせいです」などで見られるように、このフェスカルチャー独自の盛り上がり方を受け入れながらその人気を拡大してきた。
一方で山口一郎はその人気と権力を持ってフェスの数時間をジャックしたり、建物を借り切ったり、そしてメディアを通してNFというライブイベントを行った。「NF」はフェスという場での画一化された盛り上がり方ではなく、自由に音に合わせ体を揺らすという本来のダンスミュージックの楽しみ方をフェスに訪れる方々や邦ロックリスナーに伝えるものだった。サカナクションを通してリスナーを様々な音楽やその楽しみ方へ「適応」させる。オーバーグラウンドとアンダーグラウンドを繋げる。その一翼を担おうとしたのが山口一郎及びサカナクションのトライだったといえる。

こう見るとサカナクションはコロナ禍に至るまでも「適応」をキーワードにふたつの事象を繋げてきた事がわかる。そしてその「適応」を改めて提示したのが今回私が参加した「SAKANAQUARIUM アダプト TOUR」だったし、良くも悪くもサカナクションのトライのひとつの結実が表れたと感じた。

「multiple exposure」からライブは始まり、前半は非常にストイックなステージングだった。そのストイックさゆえどこか観客と噛み合っていない、いや意図的に突き放しているような印象さえ受けた。2曲目で披露されたシティポップ×終末感という組み合わせがThe weekndさえ彷彿とさせる新曲「キャラバン」、驚くほどタイトにアレンジされた「なんてったって春」そして「スローモーション」という流れでは観客とサカナクションの間にどこか壁があった。アップテンポな曲ではないにしろ横ノリの快感や体で踊っている雰囲気は客席から強く感じることは無かった。あんなにも気持ち良く音は鳴っているのにそんなノリ方なのか…と始めてサカナクションを観た私は戸惑いを覚えた。勿論観客は楽しんでいないわけではなく、後ろの演出などに見惚れていたのだろうし、体を動かすことは必ずしも正解ではない。演奏や演出は嘘みたいにキレキレで、人力で生み出すグルーヴとダンスミュージックの淡いで遺憾無く発揮される山口一郎の声の訴求力に圧倒されていたのは間違いない。
次に披露された「バッハの旋律を夜に聴いたせいです」ではさっきまでのソワソワした感じが嘘のように観客の多くが”あの”振り付けを踊り、誰もが一旦楽曲を貫くリズムが切れるピアノパートを待ち構えていた。クラブなどの空間であればこのようにリズムが途切れる箇所は望ましくない。しかしこのライブは「サカナクションの曲」を聴きに来る場であるからこの盛り上がり方は当然だが、「自由に踊れ!!」に対するアンサーがみんな一緒の振り付けという現状は彼らのトライが未だ道半ばであることを実感させられた。

続く「ティーンエイジ」「壁」「目が開く藍色」は間違いなく今回のツアーのハイライトだろう。サカナクション、そして山口一郎の持つ内へ向いたメンタリティとそれを完璧に音として昇華させる編曲の美しさ、シューゲイザーとしか形容できない音の壁、歌詞や曲構造に込められたギミックなど「僕の好きなサカナクション!!!」を体の芯から浴び、完全に出来上がってしまった。続きDJブースから届けられた「DocumentaRy」では周りの様子も見ずにひたすら頭を振っていた。いつかのライブ映像で見た「和太鼓トランス」の精神性そのままに「踊る」という行為に対してさらにストレートに向き合っているよう。

後半はアッパーな新曲に加えて「ルーキー」「アルクアラウンド」「アイデンティティ」「夜の踊り子」「新宝島」「忘れられないの」という大盤振る舞いで、聴きながら中高生の頃にあれやったな〜これやったな〜とかを思い出して勝手にグッと来ていた。一曲挙げるなら「ショック!」であろう。「壁」などの内省的な雰囲気とは中々遠い地点にいるが、トーキングヘッズを感じるカッティングとパーカッションの使い方がライブだとかなり強調されていて、音源より数倍魅力的に思えた。ルーツである音楽をしっかり忍ばせてくれるとしっかり好きになっちゃうのは性(さが)である。

初期曲「三日月サンセット」「白波トップウォーター」「ナイトフィッシングイズグッド」、そして時代の変遷や好き嫌いに身を委ねるという営為について歌う新曲「キャラバン」と15周年への期待を膨らませるような構成でライブは幕を閉じた。ナイトフィッシングイズグッドってボヘミアンラプソディーだったんですね…。

見ながら思ったのは「適応」することは「妥協」することに近いんじゃないか、ということだった。ストイックに披露するよりも、鉄板の曲を披露すれば盛り上がるは盛り上がる。自分たちの作りたい空間でやりたいようにやり、かつ観客を置いていかないために如何にそこに「ウケる」エッセンスを加えるか。そんな葛藤とそれを実現するための惜しみない尽力がステージから伝わって来たし、その妥協から生まれる良さは大いに存在する。観客との間合い、時代との間合いを測りながらサカナクションとしてどうステージングするのか、どんな曲を出すのか、苦心し、試行錯誤するストイックさや歪さこそがサカナクションの魅力で楽しみ方だと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?