乃木坂46 11th YEAR BIRTHDAY LIVE day2&day3感想:「キャラバンは眠らない」
「乃木坂を演ろう」とするのか、「乃木坂であろう」とするのか、「乃木坂である」ことを誇示するのか。乃木坂46の11回目のバースデイライブの5期生、4期生ライブ(と、3期生ライブの片鱗)を観て上記のような期生毎のスタンスの違いのようなものがうっすらと脳裏に浮かんだ。
勿論オーディションに受かり活動している時点で彼女たちは紛れもなく「乃木坂46」だ。ただ、彼女たちは常に不安を口にする。「これからも11人切磋琢磨して、乃木坂にふさわしいと思ってもらえる存在になれるように、頑張ります!」。未だ「乃木坂」には相応しくないと自身を定義して、「乃木坂」との距離感を測りながら活動を行う。この距離感を測る機会が毎年行われるバースデーライブだ。乃木坂46。2011年にそのアイドルグループが結成された当時、小学生にもなっていなかったメンバーさえいる世代にとっては聳え立つ巨大なモノリスのように映っている筈だ。数字的にも、活躍の場の広さでも、あらゆる目標が達成されたグループ。目の前にはその歴史に虜にされ、その中で織り成された人間関係を最上級の物語として愛読しているファンが、3年間封じ込められてきたライブにおける身体的参加への欲求をパンパンにしてスティックライトを構えている。
このnoteでは、2日間で見えた5期生、4期生のそれぞれの「乃木坂」との距離の測り方について少し述べていく。
絆された世代
5期生を形容するとき、「異質さ」「インターネットネイティブ以降の世代」「全員エース」「精鋭」「乃木坂の未来」みたいな言葉が使われるのを目にする。確かに、異質ではある。公演の1曲目は「絶望の1秒前」。モノクロの衣装に身を包む彼女たちに与えられた歌は発売から1年が経たぬうちに、今やアンセムとして機能している。活動初期に自粛をやむ無くされたふたりがセンター・井上和の目を妖しく隠しながら「最近の僕は空回りしながら/壊れていく」と歌う。複数のアカウントを使い分け、偽ったのか本当なのかわからない自分自身をインターネットに投じ「空回りしながら」「壊れていく」世代。思えば中西アルノと岡本姫奈はそんな時代の体現者であり、被害者でもあった。その冷たくも示唆的なストーリーテリングからは「3番目の風になろう」「エンブレムを汚さぬように頑張るしかない」、そんな言葉を使った先人たちの期別楽曲とは全く違う趣を受ける。
極め付けは「優しさに絆され取り繕っても/あぁ そのうち僕は裏切るだろう」という一節だ。乃木坂はメンバー間の「優しさ」の連鎖でその歩みを続けてきたが、彼女たちは曲においてその優しさの連鎖からはみ出てしまう未来を指し示す。上の世代が積み上げてきたものは脇に置いておき、「結局は君自身/どうしたいか聞こう」と締める。井上和はいつか到来するそんな時代をも見透かすように、挑戦的に、口角を少し上げる。10年目の新世代はおそらく、その異質さで乃木坂をかき乱し、カウンターとして機能してしまう。
と思いきや、そんな恐れと期待が入り混じったのは1曲目「絶望の1秒前」ぐらいだった。今回のバースデイライブにおいて5期生が見せた姿というのは、特異な状況下で活動を開始した彼女たちが「乃木坂」に順応していく様、敢えて「絶望の1秒前」の言葉を用いるならば、彼女たちが乃木坂に「絆されて」いく様だった。
「せっかちなかたつむり」、「他の星から」、「Threefold Choice」、「孤独兄弟」、「Another Ghost」、「日常」と乃木坂の名曲を振り返るセットリストにおいて5期生はなんとなく楽曲群を乗りこなしてしまった。それも適度にメンバーの面影を見せつつ、である。深川麻衣の慈しみを五百城茉央に。西野七瀬、あるいは斉藤優里の機械人形のような感情の発露を池田瑛紗に。橋本奈々未と白石麻衣の凛とした立ち姿を菅原咲月と井上和に。まさに乃木坂が行ってきた「欠員をトレースした人物による空いたポジションの補充」であり、「継承」の儀だ。
ただ、5期生がこれまで乃木坂が行っていた同じエモーショナルの喚起をした、と安易に言いたくもない。寧ろ、3期生や4期生が行ったぎこちなく、観客が拳を握って声援を送らざるを得ない「継承」よりも5期生自身の解釈が介在する、5期生による乃木坂46の「再演」だった、と声を大にして言いたい。齋藤飛鳥の持つ横移動のニュアンスや四肢の脈動をバレエで鍛えた身体性で捉え直した岡本姫奈の「Sing Out!!」、軸のブレが少ない井上和の体幹により高速道路をスーパーカーが駆け抜けていく様を彷彿とさせた「Route 246」、賀喜遥香から乃木坂へ向いていたはずの「好き」の矢印を強烈な磁場で自身への矢印へねじ曲げてしまったような川﨑桜による「好きというのはロックだぜ!」。原曲を再解釈していくプロセスが挟まれることで、単なる継承から、改めて乃木坂楽曲を身に纏って舞台を舞い踊るような印象が生まれる。乃木坂の楽曲を自身に纏い、乃木坂を演じる。「絆す」という言葉には「自由を束縛する」という意味があるらしいのだけど、プレイアビリティの高いメンバーが乃木坂という装束を着てライブを行っているような、或いは5期生が急速に乃木坂に向かって収束していくような、そんな公演だった。
だから、「スター誕生」パートで5期生本来の獰猛さが垣間見えたのは「乃木坂」に対するせめてもの抵抗だったのかもしれない。当時の宇多田ヒカルが持っていた大人への眼差しと、今の宇多田ヒカルにはない若さゆえの全能感や陶酔感を両立させた上で「First Love」を歌える中西アルノや、国内の若手バンドでも屈指の歌唱力を持つMrs.Green Apple「点描の唄」をカラオケ的嫌悪感を漂白した上で歌いこなした奥田いろはなど、乃木坂の枠では捌き切れない実力を見せつけた時間は「5期生ライブ」に必要だったとも言える。
乃木坂に対してのオルタナティブな在り方を示すであろう期待を向けられた11人は1年間で乃木坂に絆されてしまったが、彼女たちが隠すナイフはまだ鋭く光っているはずだ。
「光について」
先輩の背中を追いかける「4番目の光」の歌詞を軸に展開される前半約15曲と、4期生楽曲7曲が披露された4期生ライブ。乃木坂4期生はこれまで3回単独ライブを、3回の「乃木坂スキッツ」ライブ、「スター誕生!」ライブを経験してきた。加入時期に基づく「●期生」毎の活動が主軸となった2019年以降の乃木坂46において、4期生は群体としてその真価を発揮させていた。音楽番組に「I see…」「Out of the Blue」を引っ提げて登場したことは記憶に新しい。ただ、4期生が群体として力を付ければ付けるほど、乃木坂46の本体の活動に彼女達が飲み込まれていく。ある者はセンターを担い、ある者はアンダーと選抜の境目の波に巻き込まれ、ある者は赤黒い照明に照らされてアンダーの場で歌い踊る。それぞれがラジオやドラマ、雑誌媒体で活躍の場を広げれば広げるほど、メンバー毎に見える景色に違いが生まれる。この変化は1期生にも3期生にも見られたものであり、グループアイドルの宿命であろう。
そしてこの1年間、予期せぬ自体も含め、各々が見ている景色の変化は4期生という「群体」のあり方をもポジティブな方向にもネガティブな方向にも変えた。2年ぶりの単独ライブとなる今公演は、改めて4期生の群体としての輝きを問い直すような時間であった。
象徴的だったのは後半、4期生楽曲を立て続けに披露した7曲の会場が沸騰するような狂騒ぶりだ。(「図書室の君へ」を除き、)過去の誰かをトレースし披露すること、VTRで思いを話し曲に載せること、ライブの合間に不可思議なファンサービスを挟む演出を行うこと、そういったいかにも乃木坂的なライブ進行から脱してシンプルに観客のダンスと熱狂だけを煽るこの時間は、これまでの10年間からの逸脱の狼煙だった。
確かに「誰が誰の場所で踊るのか」「どう意思を継ぐのか」といった要素はバースデーライブに見られるひとつの醍醐味だろう。初日に遠藤さくらがスクリーンに映る齋藤飛鳥の巨大な姿を前に震えながら踊った「ここにはないもの」における歴史を背負う姿はパフォーマンス云々を超え、情動を喚起する。しかし、4期生ライブの終盤はバースデーライブにおける「過去に立脚しない」という戦い方を示した。その戦いの火蓋を落としたのもまた、遠藤さくらだった。以前、秋元康が「愛は与えるものと/君を見てて思った」(「ハルジオンが咲く頃」)と書いた通り、遠藤さくらは4期生それぞれを肯定する言葉を投げ掛け、メンバーの目に光るものを浮かばせた。「4番目の光」で歌われる「光は愛」とは、遠藤さくらが4期生のメンバーに対して言葉を与え、光を灯すプロセスに他ならない。そのプロセスこそ、互いを肯定し合うことで生まれる理想的な共同体としての「乃木坂」を体現している、と言って良い。
構成員それぞれの在り方の肯定を前提とした共同体でもって、過去の乃木坂のライブには少なかった純然たる熱狂的なライブ空間を作り上げる。''乃木坂であること''示しつつ、過去の乃木坂を塗り替えていく。寧ろ乃木坂に対してオルタナティブな方向の可能性を示したのが4期生であり、今回の4期生ライブだったといえる。
話は脱線するが、「光」は楽曲のモチーフとして比較的ポピュラーである。小沢健二、ASIAN KUNG-FU GENERATION、宇多田ヒカル、andymori、カネコアヤノ、銀杏BOYZ、RADWIMPS、羊文学…。その中でもGRAPEVINE「光について」、その続きである「すべてのありふれた光」は現在の4期生を表しているように思う。
少しは乃木坂に慣れたが、急ぎ疲れ、抱えた情熱の居場所を探してい
たメンバーが、遠藤さくらの「特別な声」に導かれて改めて奮起した。そんな場が今回のバースデーライブ4期生公演でもあったのだろう。
ひとつ触れておくべきは掛橋沙耶香の扱い方だ。私は今回の演出に関してはやってはいけなかったと思うし、明確に批判する。今回の件に限らずだが、「過度な仕事量」「仕事上でのメンタルの疲弊」「ステージでの事故」という明らかな過失を、さも美談のように仕立てあげ、感動のための手段として用いるのには抵抗がある。センターを空け、誰もいないステージにスポットライトを当てて「いないこと」を強調し、メンバーが画面に映る掛橋を涙目で眺める。それはエンターテイメントだろうか?
終わりに
2日間を通し、5期生は乃木坂を演りきり、4期生は自身の乃木坂性を体現した上でそこからの逸脱の可能性を見せた。そんなメンバーが選抜の中心となる32ndシングルの活動がそろそろ本格的に動き始める。