映画『戦争と女の顔』
ようやく見に行った。見損ねなくてよかった。あらすじや批評はすでにたくさん出ていると思うから、自分のための忘備録として直後の感想を残しておこうと思う。必ず見るつもりでいたので、他の人の評価はあまりしっかりとは読まないでいた。でも概ね良い映画だと言われていることは知っている。
その上であえて言うと――とても良い映画だった。動く絵画のような映像は、独ソ戦直後のレニングラードがかくも美しいのかと思えるほど。そして、役者さんたちの演技が見事。スターリン時代が舞台なのに心から憎める人は出てこず、そのことで心を疲れさせずに済んだ(今はそんなことにも救われる)。みんな苦しいほどに憐れで、傷ついていて、誰かを静かに真剣に愛しているのに叶わなくて、イーヤに無理を強いるマーシャのことも、マーシャを無邪気に愛する特権階級のおぼっちゃまのサーシャも、その母親も、結局は憎めなかった。
この映画は主人公の声がもっとも小さく、そして動きも静かで、イーヤがじっとしている場面がとても多い。人々が慌ただしく動きまわるその中に、一カ所だけ静かな点があり、そこにイーヤがいる。静点なんて言葉はないと思うが、彼女のPTSDの発作をみんなが「固まる」と表現していたように、発作でないときもフリーズしたかのようにしばしば静止しており、それがまた絵画のような錯覚を生む。
映像は終始うす暗い。夕方なのか夜明け前なのかわからない、あのロシアの冬の時間。束の間の昼以外は延々と暗い一日が続き、部屋の電気は暗く、人びとの気持ちも暗い。けれども、病院の場面がほぼセピア色か暗いのに比べ、主人公たちの部屋は(電灯は暗いけれども)、壁や服の色の緑や赤が意味をもっているかのように印象的だった。マーシャは壁を緑に塗り直そうとし(途中で放り出されている)、イーヤは緑色のセーターを着ていて、とっておきのワンピースも緑色(最初に彼女が着る予定だったワンピースは赤だった)。それが最後の場面では、イーヤが赤いセーターを着て、マーシャが緑のワンピース(鼻血が赤くついている)になっている。大学時代に受けたドストエフスキイの講義で、ソーニャの緑のショールが聖母のそれと同じだと聞いた記憶がよみがえる。ああ、マーシャはマリアの愛称だ…と。緑のワンピースにしろと助言したのはイーヤだ。そういえば、ソ連時代の小説では、着る物が足りないから、女性たちがよく服を貸し借りしていて、それによって分身的な印象を残すことがある。マーシャもイーヤもどちらもパーシュカの「ママ」だし、同じ部屋に暮らし、同じ物を食べ、同じ病院で働いている。ちなみに、パーシュカはイーヤのことを「ママ」と呼んでなついていて、おそらく生きていたとしても、マーシャは帰還後その事実に傷つき、息子を失ったと感じていたことだろう(「あなたのことをママって呼んでない?」とイーヤに訊いていた)。
けれども、この映画はそれで終わっていない。イーヤとマーシャはおそらく、監督の意を超えて女性同士の関係と、絶望の中で希望をつなぎ生きようとする彼女たちの姿を表現してしまったのではないかと私は見ている。ステパンは家族のお荷物になるよりは死を選び(妻は最初のうち引き摺って連れ帰ると言ったのに)、院長も町を出ていくことにし、サーシャもいずれ親の祝福を得る女性と結婚するのだろう。けれども、イーヤとマーシャは傷を負った自分たちのままここで生きようとしている。映像ということもあろうが、すでにアレクシエーヴィチの原作以上に女性たちの息づかいが聞こえてくる。
すべて戦争のせいだ、人間の生活の中に張り巡らされた、人間と人間という点を結ぶ糸がすべて断ち切られ、ぐちゃぐちゃになり、母子も夫婦も友人も同僚もそれまで通りの関係ではいられない。かつての幸せを、かつて夢見た幸福を取り戻そうとしても、切れた糸は手繰り寄せても、もうどこにも繋がっていない。最後にマーシャとイーヤが暴力的なキスと拒絶の殴打の後に激しく口づける場面は、そんな二人の糸が必死な手で結ばれてゆくプロセスであるかのように見えた。この糸は二人にとって命綱となる。戦争はいけない――物語は単純ではないが、映画のメッセージはそれに尽きていると思う。
(2022/8/26 考えるのが遅いので、いずれまた別の理解が生まれることでしょう、楽しみに待ちましょう)