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あばら家のわが家も今日は銀のいえ
静かな年始を過ごすようになって時間ができたこともあり、かつて賑やかに迎えた新年をともに過ごした身内をゆっくりと思いだすことが多い。祖父がせっせと正月料理を準備していたことや、お年玉袋を大量に用意して頭を抱えている母や、曾祖母の家での餅つきや、なんとなくいつもより浮かれている幼い私たちのことや……。
二人いるはずの祖母は、私が生まれたときにはすでに二人ともいなかった。母方の祖母は、母が10歳のときに結核で亡くなり、父方の祖母は私が生まれる数年前に亡くなったようだがよくわからない。私は父親とさえ一緒に暮らしたことがまったくなく、会うことはあったが、私は彼をひどく嫌っていたので、思い出話を聞くなど稀だった。
それでもひとつだけよく思いだすのは、その父方の祖母が幼い時に詠んだという句である。
あばらやのわが家も今日は銀のいえ
子どもの頃に聞いたきりだから記憶違いがあるかもしれない。どんな文脈で話されたのかもよく覚えていない。でもどういうわけか何十年も忘れずにいる。みすぼらしい家を銀色に輝かせているのは、雪そのものよりも、雪を迎える子どもの喜びを表現したことば。会ったこともない、写真を見たこともなく、名前も知らない私のおばあさんも言葉の世界が好きだった人なんだろうかと、思いがけない親しみを覚えたような気がする。
そして最近気づいたことがある。この祖母は九州の田舎の人だったけれど、それなりに裕福な家庭に生まれ、けっこうなお金持ちの家に嫁がされ、おそらくは一生涯、「あばらや」などに暮らしたことはないということ。つまり、この句はフィクションなのだと。
やるじゃないの、おばあちゃん。
今年は九州もけっこう雪が降りましたよ。