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旅の記録 ①(②があるかは未定……)

2022年9月7日(水)の忘備録

台風一過の晴れた日。佐賀市内のビジネスホテルを出て路線バスに乗る。30分ほどで着いたそこは、母方の祖父の故郷だ。元村役場前でバスを降りると、役場の裏にある郷土資料館の小さな分室に寄り、町史誌を閲覧してこの地の歴史をざっとたどった。

ここに来るのは40数年ぶり。子どもの頃に誰かの法事があったとき以来だ。祖父と母と私と弟。鹿児島本線に乗り、鳥栖で長崎本線に乗り換え、佐賀駅からタクシーに乗った(のだと思う)。乗り物酔いがひどかった私は、あの日も列車で気分が悪くなり、鳥栖で乗り換えるときには、もうこれ以上なににも乗りたくないと思うほどぐったりしていた。列車は混んでいて座席には座れず、デッキに置いたボストンバックの上に座り込んで、膝を抱え俯いていた。

到着した場所は田んぼのど真ん中で、広大な佐賀平野は遠くまで見渡せる緑と空の青がすがすがしかった。家々の前には水路があり、小さな石橋を渡って敷地へと入っていく。それがとても面白く、橋を渡るときにはドキドキした。家に入ると、広い玄関と土間があり、祖父の兄一家が迎えてくれた。

私は数日前から祖父に練習させられた通りに、正座して三つ指をついて「しんたろーの娘のあやこの娘のさとこです」と挨拶をした(弟はあんなに練習したのにやっぱりできなかった)。すると、祖父のお兄さんというおじいさんがどこからか現れたので、同じように挨拶をしようとしたら、誰かが「じいちゃんは耳が聴こえんからわからんよ」と言った。完全な聾唖の人だった。私が少し戸惑っていると、おじいさんが私の前に自分の大きな手を差しだした。それで私はその手のひらに「さ・と・こ」と一文字ずつ大きく指で書いた。おじいさんはにこにこと笑いながら、何度か大きく頷いてくれた。それから私の手のひらに「ようきたね」と書いてくれた。くすぐったかったせいもあって私は笑い、同じように大きく頷いた。ことばが通じたことがとても嬉しくて、このときのことは今もよく思い出す(私の祖父もかなりの難聴だったから、なにか遺伝的なものがあるのだろうと後に思ったりしたが、今となっては何も分からない)。

その家には私と同い年の女の子がいて(名前を覚えていないのが本当に残念だ)、やはりにこにこしていてとても好きだと思ったことは覚えている。静かに寄ってくると、「豚小屋見たことある?」と囁いた。「ない」と答えると、「見せてやる」といって外に駆け出していった。後をついて走っていくと家から数分のところに白い建物があり、たくさんの豚がブーブー鳴いていた。「うわー、豚小屋きれいやねー」と言うと、「豚はきれい好きなんよ」と教えてくれた。建てたばかりだという豚小屋がうちよりもきれいだったことと、豚がきれい好きだという事実に驚いて、鮮明に記憶に焼きついている。誰の法事だったかも覚えていないのに、この二つの出会いと二人の笑顔はずっと忘れないでいる。祖父が楽しそうにしていたことも(祖父と兄さんはどうやって会話していたんだろう、手話などできなかったと思うのだけど)。

楽しくなさそうにしていたのは私の母だ。彼女は当時ヘビースモーカーだったけど、普段会わない親戚たちには隠していたから、煙草が吸えず静かにイラついていた。それに、自由気ままな人だったから慣れない人たちの中で気を使うのも苦手だったのだろう。頻繁に散歩に出ては、私と弟に周囲を見張らせて田んぼの真ん中で煙草を吸っていた。そのたびに、田んぼばっかりでつまらない、もう二度と来たくないとこぼしていた。

一晩泊まり、翌日さよならをした。聾唖のおじいさんにもそれきり会っていない。帰りの電車の中で母は、あんな田舎には二度と行きたくないと私が言っていると祖父に話しだした。電車にも酔うし、田んぼばかりでおもしろくないと私が言っていると嘘をついた。祖父は暗い顔になり、私は慌てて、「自分が行きたくないくせに」と否定したかったけれど、誰も傷つけずにうまく弁解できることばを知らなかった。母の機嫌を損ねるのが厄介だというのもあったかもしれない。祖父はとりたてて何も言わなかった。

それ以来、私が佐賀に行くことはなかった。聾唖のおじいさんが亡くなったときも祖父は一人で帰省したようだ。もしもお葬式に行けたなら、あの大きな手のひらに「さようなら」と書いてお別れしたのに。大人になって言葉を得てから私は母を責めたことがある、母はたいして気にもせずに笑っていた。

この夏の旅は、ずっと抱えていた宿題をようやく済ませたようなものだ。祖父が亡くなってから32年、ようやく私はあの村を再訪した。あのとき楽しかったよ、また行きたい……となぜだか私は祖父に伝えないままだった。私と祖父はとりわけ仲が良く、あちこちへ二人でよく出かけたというのに、それでもあそこにはあれきり行くことはなかった。

あの時、おじいさんの家があったはずの場所には、誰も住んでいない古い家が残っていた。田んぼも小さな石橋のある水路も記憶の中の風景のまま。それでももうあの時の人たちの気配はそこにはなかった。でも、誰にも会えなかったけれど、台風が残した風が稲穂を揺らしてさわさわとたてる波音や、用水路に亀が飛びこむトプンという音を、幼い頃の祖父が遠い耳で聴いたかもしれないと思って記憶し、荒れた小さな神社を見つけては、この境内で遊んだ日があったかもしれないとしばし立ち止まり、この道も、こちらの道も歩いたにちがいないと、見えるはずのない足跡を見つけようとして何度も行ったり来たりしながら、また来たよ、また来たよ、と何度かつぶやいた。

近くのお寺に入ると、墓地に「高柳家の墓」と見えた。ああ、こんなにすぐにお墓が見つかったと喜んで手を合わせた。すると、その向こうにも「高柳家の墓」があった、ぐるりとまわると、もうひとつあった。どれだかわからないので三つとも手を合わせ、「しんたろーの娘のあやこの娘のさとこです、ご無沙汰してすみません」とご挨拶をした。気づくと5時間近くも歩きまわっていた。足が棒になったせいか、暑くて汗だくになったためか、ここまでやったんだからもうわかってもらえたんじゃないかなという気がした、私は「行きたくない」なんて少しも思ってなかったって。私と祖父はとりわけ仲が良く、二人でよくでかけたから、あの日もきっとそばにいたんじゃないかなと。

それでも無性にまた会いたくなって、帰りのバスを待つあいだ、誰もいない停留所で少し泣いた。





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