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HARD ②刑事の勘
結局、横山鏗爾の妻だという女は数言しか発することがないまま子供の手を引き、杉本とともに帰っていった。
圧力と圧力がぶつかり合うような時間が終わり、店主の野村達夫は胸をなでおろした。
「生きた心地がしなかったな。静かだけど、まるで怪獣大戦争だ」
瞳美に同意を求めるが相手にされず、いじけて洗い物を始めた。
「で、手付金は二十万って聞こえたけど、その封筒に入ってるんでしょ?受け取りはいらないなんて、あんまり大きな声じゃ言えないよね!」
「十分でけえ声だ、それは」
颯介は瞳美の次に封筒を睨んだ。不快感が顔に出た。それまで杉本が座っていた椅子に瞳美が腰かけた。
「何が面白くないわけ?仕事が舞い込んだうえに、受け取りも――」
「横山鏗爾って男は、夜に棲む者たちの中じゃ知らない者はないって程の有名人だった。それこそその辺にごろごろいる素人の喧嘩自慢なんてレベルじゃあない」
遠い目で話し始めた。瞳美は颯介の暗い眼差しを見つめて聞いた。
「俺が一課にいたころ、仕事で接触のあった荒くれ連中の中でもひと際恐れらた存在だ。誰が付けたのか、あだ名はクラッシャー。壊し屋だ。何を壊すか」
尋ねるまでもなく颯介は言葉をこぼした。瞳美は二か月ほど颯介と接したが、これほど以前のことを語る颯介は初めて見た。
「あいつは、依頼されれば何でも壊したんだ。物も――人も」
人差し指で封筒を押し、微かに笑った。
「どこから来たのか誰も知らない。横山鏗爾が本名かどうかも含めて、謎の多いやつだった。警察には犯罪履歴が残ってないので、照合のしようもなかった」
「何でも壊すのに…犯罪はしてないの?」
颯介は首を横に振った。
「女をどうこうするだの、未成年に牙剥くだの強盗だの、そういったことは一切しないが、それこそ飲み屋に〈たかる〉中規模の組織程度はやすやすぶっ壊す男だ。当然犯罪行為もしたはずだ」
「で、なんで警察は…」
「証拠がない」
感情のない声だ。悔しさも、怒りもない。遠い風景を見るような、静かな表情に瞳美には見えた。
「クラッシャーなんて言うと脳みその足りねえ暴れるだけの薄ら馬鹿野郎を想像するかもしれんが、鏗爾は違う。コンピューター付きの戦闘マシンなんだよ。証拠は残さなかった」
「でも、篠上さんは知ってるじゃん、そのこと…。なんで?」
無言で、意外なほど穏やかな笑みを見せた。
「証拠はない、が、俺にだけは話したからだ」
「話す?」
「そう。この間どこそこのチーム全員が病院送りになった件は自分がやった――とかな」
「自供じゃないの!」
「そうだが、挙げるわけにはいかないんだ」
「なんで?犯罪を認めたなら…」
「自供って言うのはな、ひどく脆いものなんだ。仮に物証のない事案があるとする。それでもどうかして被疑者は押さえることができたとしよう。取調室で犯行の自供もあったとする。それで送検し、起訴されてめでたく公判に持ち込んでも、そこでひっくり返す奴は多い。自分は無理に言わされただけだ――とな」
瞳美は息まいた。
「なんでそんなことするの!」
「取り調べから逃げるためだ。言ってみれば、時間の節約」
言葉を失った。いつの間にか浮かせていた尻を椅子に戻し、瞳美は口を噤んだ。
「そいつが犯人だと断定する力は、実は自供にはない。結局は客観的な物証が必要になって、下手すりゃあ無罪放免だ」
「釈放されるの?」
颯介は頷いた。
「でもそのあとで新しい証拠とか…」
颯介は瞳美にチョキを作って見せた。
「二つの理由で、まず不可能だ。一つは二重処罰の禁止。これは憲法でも定めがあるが、人は無罪が確定した同一の罪で処罰は受けない。もうひとつは――」
言葉を探す様子で天井を見上げた。浮かんだのは苦笑だ。
「警察はな、暇じゃないんだ」
何かを思い出すように、颯介は同じ言葉をつぶやいた。
「暇じゃない」
「だから、もう追わないっていうこと?」
苦笑が明るい笑みに変わった。
「そういうことだ。日々新しい事案が押し寄せてくる。それに対処するのがやっとで、以前の、それも起訴されて無罪なんて――その確率は日本じゃあ圧倒的に低いとはいえ――そんなことに関わってられないのさ。だから、奴が俺に何か話し、仮に引っ張ったところで、物証がないのなら絵空事を言いました…ただの物語ですよ…で終わりさ」
「なんか納得いかないな」
その瞳美から目をそらし、颯介は封筒を瞳美に押しやった。
「預かっといてくれ」
「は?なんでよ?陽芽ちゃんに何か買ってあげるとか――」
「受け取らない可能性があるのと、手元にあると本当に使っちまいそうだからな」
悪戯な笑みだ。先刻の猛獣の気配は、皆無だ。
「でも、受けたんでしょ?」
颯介は立ち上がった。
「最近の鏗爾の動き――立ち回り先の心当たりや何かは杉本から聞いた。まあ、元の仲間たちの迷惑にならない範囲で何があったかは当たってみるが、刑事の勘が働くんだよ」
ドアに向かい、一度立ち止まって振り返った。
「俺がお縄にならないように祈っててくれ」
「ねえ!訊いてなかったけど、あのプロレスラーみたいな人は何なの?」
颯介はふと考え、言った。
「後輩の、あれでも元刑事だ。あいつも基本がアウトローなんだ。組織に馴染まなかったのは俺と同じだな」
笑い声を残して颯介が出ていくのを見届けた達夫が卵を一つ持ってつぶやいた。
「なんかハードボイルドだなあ」
瞳美は封筒を見つめて溜息をこぼした。