神話と現代の境目へ(出雲旅その5)~戦闘機に乗った美保神社宮司~
【前回までのあらすじ】
令和6年元旦に起きた震災で心に期するところがあった野郎二人。出雲を目指して旅することになった。しかし、時間は1月4日の夕方から5日の夜まで、約24時間しかない。「24 -TWENTY FOUR-」のように緊迫した「中国大回転」旅が今始まる。
福山駅→米子駅前スーパーホテル→赤猪岩神社→清水井→境台場公園「美保関事件」慰霊塔→美保関灯台→美保神社 ←イマココ
【「隼」に搭乗した美保神社宮司】
美保神社を最初に知ったのは、國學院大學から出陣された先輩学徒の慰霊祭「戦歿先輩學徒慰霊祭」に参列した際に、横山直材宮司にお会いしたからだった。
大学の大先輩としてお話を伺っていると、旧制松江中学時代には同期の竹下登(後の総理大臣)と仲が良く、國學院ではどのような気持ちで学徒出陣に臨まれたかなど大変興味深いお話を伺った。
しかもあの美保関事件に縁のある美保神社である。いやー1度お参りに行きたいなぁと強烈に思った。
横山宮司はその後、すぐに逝去された。しかし、学徒出陣を体験された方々の取材をまとめた書籍「学徒出陣とその戦後史」にも横山宮司が詳しく出ておられ、その全体像がようやくわかってきた。
陸軍一式戦闘機「隼」の搭乗員だったということもこの書籍で知ったようなものだ。
古代から続く美保神社の神職が、近代兵器の搭乗員であった、というギャップに驚く。
【鳥居から海まで20メートル 美保神社】
美保神社にやって来て最初に驚くのは海との近さである。
鳥居から道路を隔てて、すぐ海だ。
もし高波でも来たら、水浸しになってしまうのではないか。
鳥居の周囲には名物のイカ焼き屋台が出ていて本当に美味しそう。
海の関係の神様がおられるのだろう、と知らない人でも予感させる潮の香りに満ちた神社である。
御祭神は二柱おられ、まず大国主神の子の事代主神(ことしろぬしのかみ)である。この神様は諏訪大社の建御名方命の兄神にあたり、国譲り神話で恭順の意思を示した。
鯛を手にする神「えびす様」として知られる「海上安全、大漁満足、商売繁昌、音楽、学業」の守護神である。
もう一柱の御祭神が、大国主神の后の三穂津姫命(みほつひめのみこと)である。高天原から稲穂を持って降臨し、人々に配り与えた神様のため「五穀豊穣、夫婦和合、安産、子孫繁栄、音楽」の守護神である。また、美保(みほ)という地名は三穂津姫命が源ではないか、と思われる。ちなみに御祭神二柱はそれぞれ大国主神の御子神と后であるが、事代主神の母神は神屋楯比売神(かむやたてひめ)のため、義理の親子となる不思議な関係である。
古い神社建築様式「大社造」ではあるが、左殿、右殿に分かれる特殊な形式で「美保造」と呼ばれる。左殿に三穂津姫命、右殿に事代主神をお祀りしているが、義理の親子ゆえの二世帯住宅のようなものなのだろうか。
音楽の守護神でもある当社には、樹齢1000年のケヤキをくり抜いて造られた「三つの兄弟太鼓」の一つが奉納されている。毎朝の祭典で使用される大鼕(おおどう)である。
デデーンと置かれており、最初はこの巨大な物体が何かわからなかった。
ぜひ実物を見ていただきたい。写真で見る数倍の迫力がある。
【神社を護るご苦労を垣間見る】
横山直材宮司だけでなく、美保神社は代々横山家が護ってきたものだという。
大きな看板に美保神社の大造営への寄付金のお願いが書かれていた。
ただでさえ、海の前の社殿の痛みは早いだろう。そしてこの規模である。金額も大変なものだった。
大変な思いをされて造営を進めておられるのだろう。
美保神社だけでなく、全国の神社が知恵を絞って古来からの姿を残そうとしている。神社の関係者だけが頑張っていても護ることはできない。
皆で護る意識を如何に持つか、これから問われる時代になるのではないか。
【ん?横道があるぞ!】
参道を帰ってくると気がついた。
あれ?鳥居の横に石畳の道が見える。
ちょっと入ってみるか、と思ったのだが、それはディープな世界の入口だった。