陰陽師に憧れて京都旅(その6)賀茂御祖神社と河合神社
出張中の京都駅でアポのドタキャンを知って怒り狂った男二人。その勢いのままに「丑の刻参り」の聖地・貴船神社へ向かう。しかし、そこには怒りや呪いすら清める清浄な空間があった。賢者のような気持ちになって下山し、糺の森へ入って下鴨神社に向かう二人であった。
【2000年以上前から鎮座する下鴨神社】
手水舎は御祭神になぞらえて舟形になっており、大変面白い。
そして「糺の森」の語源の一説でもある「直澄《ただす》」と書かれている。
下鴨神社は京都で最も古い神社の一つに数えられる。
由緒によれば、創始は、神武天皇が即位して2年目(紀元前658年頃)であるという。
また現在でも「御蔭祭」として継承される「御生神事」が始まったのは第二代・綏靖天皇の御代(紀元前581年頃)と書かれている。
我々が「京都」としてイメージする平安京(794年)よりも1000年近く古いことになる。
平安京造営の祈願を行ったのがこの下鴨神社というから、もう格が違う。
平安京が作られる以前、2000年以上前の京都はどのような光景が広がっていたのだろうか。
【御祭神は八咫烏にもなった導きの神様】
そして下鴨神社は通称で、正しくは「賀茂御祖神社」という。その名の通り、賀茂氏の祖先を祀っている。
御祭神の「賀茂建角身命」が祖神である。
この賀茂建角身命は、「八咫烏」として神武天皇を先導した神様なのだという。
八咫烏の信仰を学んだ熊野本宮を思い出すなぁ
導きを終えた後に、山背国まで行き、清浄な糺の森に鎮座したというのだ。
【矢に化身した神と結ばれる】
ちなみに賀茂建角身命には玉依日子と玉依日売の2柱の御子神がいる。
玉依日売は、丹塗矢(赤く塗った矢)に化身した火雷神を床の近くに置いていたところ、なんと懐妊し可茂別雷命(上賀茂神社の御祭神となる)を出産したとされている。
矢に化身した神様と結ばれて神様を出産するとは、すごい話だ。
この話から下鴨神社の御祭神の孫が上賀茂神社の御祭神であるという関係がわかる。
【タマヨリビメという女神】
この「タマヨリビメ」という女神に聞き覚えがないだろうか。
貴船神社の創始者は神武天皇の皇母であるタマヨリビメで、黄色い船に乗って貴船までやって来たと言っていた。
神武天皇の皇后の母も、大物主命と婚姻した玉櫛媛であった。
タマとは霊(神霊、霊魂)のことで、ヨリとは憑りつくことを指す。タマヨリビメとは神霊の依り憑く姫巫女のことを指すと思われる。
神と婚姻して神に連なる存在を産む女性を「タマヨリビメ」と呼んできたのだろうか。
【下鴨神社を護った賀茂氏とは】
賀茂建角身命を祖神と仰ぐ賀茂氏とは賀茂県主氏のことを指す。下鴨神社を護り、山城国の葛野郡・愛宕郡を支配した。
残念ながら、安倍晴明と関係が深い陰陽頭の賀茂忠行・賀茂保憲父子を輩出した加茂朝臣氏とは別系統なのだ。なんだか残念・・・
【みたらし団子の発祥の地】
神門をくぐって本殿近くへ行くと、御手洗池がある。
ここに湧く水泡を模して作られたのが、あの有名な「みたらし団子」らしい。
テッカテカのみたらし団子は確かに水の泡に見えないこともない。
ラグビーもそうだったが、さすがに2000年以上の歴史があると、なんでも発祥の地になっていくのだ。
神武天皇を導いた
さて、次は河合神社に向かいます。
【美人の神様・河合神社】
河合神社は「ただすのやしろ」と言い、鴨長明はこの社の禰宜の家系だったという。
古典で必ず学ぶ「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の名文で有名な「方丈記」作者の鴨長明である。
禰宜とは聞き慣れない言葉かもしれない。神職の階級で、「ねぐ(和ませるの意味の古語)」から神の心を和ませる者という意を込めて、「ねぎ」と呼ぶようになった。
鴨長明は禰宜への就任を願ったが、反対意見によって道を閉ざされている。
しかし、ここで思いが成就しなかったことで、鴨長明の文才はブーストしたのかもしれない。
河合神社は玉のように美しい御祭神玉依姫命が「美麗の神」として讃えられ、女性守護、美人の神として仰がれている。
御祭神もそうだが社も実に美しいのだ。
絵馬を描くスペースを「お化粧室」と表現しているのも実に洒落ている。
境内には女性が多く、楽しげな声が行き来していた。
野郎二人も居心地が悪いながらも何だか楽しくなってくる。
野郎二人だけど、なんだか綺麗になった気がする。
ドタキャンから始まった京都の旅ももうすぐ終わり。
糺の森を出て、護王神社へ向かいます。
すいません、もうちょっとだけ続きます。