「熊野リベンジ!紀伊半島一周の旅」その9 大斎原と熊野の守護者・南方熊楠
【前回までのあらすじ】
クレソン後輩の希望に沿って、熊野を3年ぶりに巡ることになった私。3年前は回れなかったところを目指して、熊野リベンジに向かうのであった。
クレソン後輩の赤いヤリスクロスに乗り込み、1月2日の夜に名古屋から三重県津市に移動して一泊し、そして1月3日には本格的に熊野を目指すのだった。
発覚したクレソン後輩の頻尿癖はどんどん深刻になっていく。
そんな時限爆弾を背負ったまま、熊野三社の一角・熊野速玉大社と神倉神社にお参りして、恐怖の石段でヘロヘロになってしまった。
しかし、もはや怖いものは無いと開き直り、熊野の中枢・熊野本宮大社まで勢いでやって来た。
【世界遺産熊野本宮館で見る大斎原】
熊野本宮から元の社地である大斎原へは約500メートルほど。
行く道すがら「世界遺産熊野本宮館」へ入館する。3年前は閉館時間を過ぎていて入ることができなかった。
大斎原とは旧社地であり、明治22年の十津川大水害で上4社以外の社殿はすべて流されてしまった。
※上4社とその御祭神
◯第一殿 西御前 熊野牟須美大神・事解之男神
◯第二殿 中御前 速玉之男神
◯第三殿 證証殿 家都美御子大神
◯第四殿 若宮 天照大神
明治以降、山林伐採が加速した結果、山々の保水力が低下したことが大水害の原因であり、ただの災害だけではなく神の啓示のようにも見えたのかもしれない。
かつての大斎原の資料と再現ジオラマが展示されていた。
熊野川の中洲にある森に壮麗な社殿が立ち並ぶ様は不思議としか言いようがない。川からニョキッと森が出ているように見えるし、それは参詣者にも感動をもたらしたことだろう。
よくよく考えたら、下鴨神社の糺の森も高野川と鴨川の合流地点にある中洲だが、木々を抜けたらすぐに川が見えるというほど境界はハッキリしていない。
熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社の熊野三山が如何に成立したのか要点が説明されている。
【日本人の可能性の極限 南方熊楠】
「世界遺産熊野本宮館」には和歌山と言えばこの人と言っても良い南方熊楠の展示があった。
幼少時から驚異的な記憶力を誇り、数カ国語を操り、博物学、天文学、民俗学、植物学、生態学、人類学で成果を残した和歌山の怪人。
その能力もさることながら枠にとらわれない行動を繰り返し、柳田國男をして「日本人の可能性の極限」と言わしめた。
ただ、南方熊楠は学びたいこと、研究したいことに純粋に取り組んだだけで、「あなたは語学」「あなたは理系」と学問を縦割りにする私達こそ不自然なのかもしれない。
近代化=西欧化となり、西欧的な価値観(コスパ、タイパ)で測れないものを削ぎ落としていく明治日本において、日本文化の本質を見ようとした南方熊楠の行動は「神社合祀令反対運動」という形で表現された。
「神社合祀令」とは西園寺公望内閣によって日露戦争勝利後の明治39年に推進された。
その効力は絶大で、大正3年(1914年)までに全国約20万社のうち約7万社が取り壊されたという。
特に、紀伊半島では影響が大きく、三重県では明治36年(1904年)に1万524社あった神社が大正2年(1913年)には1165社にまで減少し、和歌山県では、5819社が明治44年(1908年)には1922社に激減した。
それに待ったをかけた代表的人物が南方熊楠であった。情緒だけではなく、どのようなデメリットが想定されるか論理立てて提言している。
南方熊楠は実際に野山に分け入り、熊野古道を歩き、その文化、伝統、自然環境を護ろうとした。
異様な喧嘩っ早さ、裸で野山を歩き回るなど型破りな人物だが、一言で言うと痛快だ。近代化する日本に、熊野の申し子のような南方熊楠が生まれたことは大きな意味があったのだろう。
【伊弉冉尊(荒御魂)を祀る産田社参拝】
ぴゅーぴゅー
冷たい風に吹かれながら熊野本宮館を出て、熊野川の土手から大斎原を眺める。
日本一の大きさを誇る大鳥居が圧巻である。
すぐにでも行きたいが、参道の手前に鎮座する「産田社」にお参りする。
小さな神社なのだが、巨岩が鎮座する境内の様もあって、異様な存在感がある。
御祭神は伊弉冉尊の荒御魂である。朝にお参りした花の窟神社にも伊弉冉尊がお祀りされており、さっきお参りした熊野本宮大社にも伊弉冉尊にもお祀りされていた。
熊野本宮大社には和御魂が祀られており、こちらは荒御魂だという。
積まれた巨岩は、黄泉比良坂への道を封じた千引きの岩を連想させる。
この巨岩も相まって荒々しく見える社だが、このエネルギーあってこそ日本列島は生まれてきたのだろう、と感謝して手を合わせる。
【日本一の大鳥居をくぐって大斎原へ】
日本一の大鳥居は高さ34メートル、幅42メートルの威容を誇る。
遠くから見ると「あれそんなでもないぞ」と思うのだが、参道を歩いていくとだんだん大きくなってきて遠近感が狂いそうになる。
さぞかし昔からあるのだろうと思っていたら、建立されたのは皇紀2661年 平成12年のことだと書かれていた。
鳥居の下では、日光さる軍団の猿回し芸がにぎやかに行われており、子どもたちが楽しんでいた。
この賑やかさ、明るさがあっても心がスッと静かになるのが大斎原だ。
この巨木たちは大水害を生き延びたのだろうか。
明治22年は本年(令和7年)から136年前なので、水害後に育ったとも考えられなくはないけれど、日本一の大鳥居に負けず劣らずの高さを誇る巨木を見ると、昔からずっとここに鎮座していたのではないかと思わずにはおれない。
緑色の苔のようなものに地面が覆われている。
かつて社殿があった場所はぽっかりと広場になっているが、中心に二基の石祠が鎮座している。
東の石祠 には境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社)が祀られ、西の石祠 には中四社(忍穂耳命・瓊々杵尊・彦火火出見尊・鵜葺草葺不合命)と下四社(軻遇突智命・埴山姫命・弥都波能売命・稚産霊命)が祀られている。
名残惜しいが、大斎原を後にする。
熊野川の本流とは逆側に橋がかかっており、こちらから森を出る。
さて、そこでクイズ。大斎原からの橋を渡って後輩が最初にしたことはなんでしょうか。
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もちろんトイレに駆け込むことでした。
さて、お参りも済み、熊野の地の力が吹き出す温泉に入ろう。
その10へ続く
【後輩の頻尿メーター】
⚫️◯◯◯◯◯◯◯◯◯ 1/10
放出したので一旦落ち着く。