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「もやしっ子を御柱に!」ちょっとオカルトな中部の旅(その5)~皆神山と松代大本営跡 後編~


【前回までのあらすじ】


頭も顔も良いが、肝心な時に体調を崩しがちな「もやしっ子」後輩を野性味あふれる聖地・諏訪の巨木御柱(おんばしら)まで育て上げようと、昭和のパワハラ親父精神で旅に出た。
諏訪大社を参拝すると、誰もいない暗闇で、誰かにぶつかる怪事件が起きたり、旅館自慢の風呂に入ると水風呂だったりとダメージが大きい旅となる。
いよいよ「松代大本営」跡に入るのであった。

【松代大本営とは】

ここで松代大本営とは何かを少し説明させていただきたい。
「東京」という都市は広い関東平野と東京湾に面しており、災害には脆弱であると指摘されることをよく聞かれるだろう。先の大戦において、この防衛上の脆弱性は看過できず、昭和19年7月のサイパン陥落により爆撃の可能性が高まったことから「松代大本営」への遷都計画は本格化した。

松代が選ばれた理由は主に
①本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
②固い岩盤で掘削に適し、10トン爆弾にも耐える。
③山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
④長野県は労働力が豊か。
⑤長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
⑥信州は神州に通じ、品格もある。
⑦松代に縁起の良い、松という文字が含まれていた。

後半になればなるほど、「それで良いのか」という理由だが、とにかく松代が選ばれた。

確かに東京に比べたら、防衛しやすそうではある

昭和19年11月から本格的な工事が開始され、昭和20年8月15日の敗戦により進捗度75%で工事は中止された。
放置された地下施設では落盤等により入れない箇所はできたが、一部が公開されている。


全体像と見学できる場所の説明。巨大さがわかる。
年季の入った説明板

【いざ行かん、松代大本営跡へ】


訪問したのは令和4年の年始であり、その時点で戦後77年経過していたわけだが、往時の姿を見ることが出来た。

ヘルメット着用は義務
壕の入口は結構狭い
とてつもなく長い通路が続いている
見学できる通路は網の目状のうちの一本のみである
一本道なので迷うはずがないのだが、不安になる
入れない通路にはフェンスが貼ってある
看板に掘削作業の説明が書いてある
フェンスの奥にもずっと通路が伸びている
圧迫感がすごい

ぽちょん!
「どぅわぁぁぁぁぁ」
結露した水がヘルメットに落ちてきて思わず声が出た。
地下のため圧迫感を感じるのと、とにかく通路が長くて体が緊張する。
ここまで大きいものを作るのは難工事だっただろうし、無茶もやったのだろう。

壕から出てきた時は、心からホッとした。
沖縄の海軍壕に少し似ているが、戦闘で使われていない分生々しさが無く、ただただその巨大さに圧倒される上に、地下を歩く圧迫感がある。

【松代大本営跡を見て思うこと】

私は基本的に敗戦したからと言って、戦勝のために行った行為が無駄だとは思わない。結果を知っているからこそ、丁寧に何のために行ったのか思いを偲ばなければ、先人を見下してしまうだけだろう。私たちの子孫が同じことをすれば、私たちの行動も見下しの対象になってしまう。だから心を寄せて、知る努力をしなければならない。
ただ、この「松代大本営」跡は、昭和天皇の御意思に反していたのが問題だろう、と思う。昭和天皇は国民と苦楽を共にすることを望まれ、帝都からの御動座には反対されていた。また、上層部のみが地下壕に隠れての本土決戦となれば、その不平等感は国民を分裂させただろう。それこそ昭和天皇が最も望まれないことだったのではないか。
いろいろと考えさせられる地下壕だった。


朝鮮人労務者の慰霊碑

慰霊碑に手を合わせる。

ここから見える山の下にも壕が張り巡らされている

そこから歩いていると、眼の前の景色の下に壕が張り巡らされていることに驚かされる。少し前と見る目が変わっていることに気がつく。



さて、「象山地下壕」というのがここの名称だが、「象山」と聞くと歴史好きは「佐久間象山」を連想するだろう。
実は、佐久間象山はここ松代大本営跡のすぐ近くで生まれ育ったのだ。
象山神社を目指して歩み始めた。

次は
「もやしっ子を御柱に!」ちょっとオカルトな中部の旅(その6)
~象山神社で知恵を失う~ 
に続きます

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