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アニメが楽しみな『チ。‐地球の運動について‐』のすごーいところ

 コペルニクスが天動説は間違っていて、地動説こそが正しいと証明した話を聞いた時、地球が宇宙の中心であり、太陽やその他の惑星は地球の周りを回っていたと考えられていた時代、そんな時代には当然宇宙から地球を観測する手段もない、なのに地球自体が自転していて、さらには太陽の周りを回っているのだと昔の人はよく考えたなと馬鹿みたいに純粋に感心していた。

 魚豊が描いた漫画『チ。‐地球の運動について‐』は天動説が定説とされていた15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を信じた者たちが教会に弾圧を受けながらもその説を証明するために、人生を賭けて、時には人に想いを託していく作品である。

 何年か前からアニメ化されることは知っていたが、いつしか続報を聞かなくなったので頓挫したのかと思っていた。しかし、アニメはちゃんと作られていてついに2024年10月から見られる。
プロモーションをみてそのクオリティに圧倒され、より楽しみになった。
 OPとED豪華すぎ。

 地動説を唱えた人で有名なのはコペルニクスであるが、僕はこの人のことを知った時は書き出しの通り、地球が回っているとよく気が付いたもんだと感心していて、この漫画を読んだきっかけも天動説を覆し地動説に変わった経緯を知りたかったからだ。

 しかし、この漫画はそういう学術的な漫画ではない、禁忌である地動説に心を動かされ、地動説を信じる自分を信じ、自分の力ではどうすることもできない時や、突然死んでしまったり、弾圧されて殺されてしまい、正解を知ることが出来なくても地動説を今後研究する者が現れ、自分の意思を受け継いでくれる人を信じ、そのために自分にできる最善の行動をして、この身を捧げて世界と戦うこと描いた熱い、熱い作品なのだ。

 学術的な話も出てきているがあくまで物語上で説明しなくてはいけない知識を簡潔で分かりやすく描かれている。よく考えたら難しかったら最後まで読めていないかもしれない。

 『ジョジョの奇妙な冒険シリーズ』のように章ごとに主人公が入れ替わっていくが8巻で完結するため読みやすく、何度だって熱い気持ちになれる素晴らしい漫画だ。

 何よりこの漫画の凄いと思うところは、情熱的であるが突飛な話ではなく地に足着いた物語とでもいうべきか(チ。だけに)天動説・地動説に関わっている登場人物の心や温度の変化が美しく描かれていてストーリーの軌道が素晴らしいという点だ。

 例えば第1章に登場する主人公ラファウは12歳ながら空気を読むのが上手く、特進で大学に進学できる天才で、当時学問の最高峰とされていた神学を学ぼうとするが、元から星を見ることが好きだったため天文学を専攻するか悩んでいた。
 そんな時に地動説を研究している異端者と出会い、その説に魅了され、地球が動いているか知るために天体をもっと深く研究したいという欲求が膨れ上がる。
 だが、当時は神が宇宙を創造したという宗教的な考えと、文明が発達していいため人類が知ることができない部分が多すぎる故に専門的な天文学の研究を教師に禁止されていた。
 その後、異端者は異端審問官に処刑されるが少年は異端者から研究資料や物語のカギとなる球体を託されたことにより、地動説の研究を進めることを受け継ぐことになる。

 地動説に出会う前のラファウはやりたいことより大人たちが思う、そうなって欲しい姿を想像し、禁止されていることはやらないのが当然との考えの上で効率よく物事を考えていたが、地動説に出会ったことにより、その説が証明できなくても、間違っていても、将来的に蓄えた知識が無駄になっても直感的に美しいと感じてしまった自分を信じて研究を進めようと決意する。

 上の文はかなりしょったがラファウは「もし研究していることがバレてもすぐに改心すればいいし」「神学の道に進んでもその後で天文学を勉強すればいいし」と逃げ道を作っていた。
 地動説に出会わなければ神学に進んで、教会側の人間として持ち前の頭の良さを生かして出世して苦労のない人生を歩めていただろう、そんな彼は地動説自体を恨んでいたような気持ちさえあった。
 それが最終的にはラファウ自身も地動説を研究していると疑われ、裁判にかけられた時は公の前で地動説を信じていると宣誓したのだ。
 その裁判は生死をかけたものだった、そんな時にも自分にも他人にも嘘をつかなかったのだ。

 ラファウのように地動説を継いだ人は、元から地動説を信じている人は少ない。なんでこんな奇妙な説を思いついたのだろうと思うのだが、段々と魅了される。
 そのため、すべての登場人物に地動説や人の想いに感動して、その想いを自分も継ぎたいと決心する場面がある。

 第一章を読んで、この漫画は学術的なものではなく、自分の知的好奇心に嘘をついてはいけないという情熱的な考えがテーマになっていると確信して、僕は地動説に、そしてこの作品に魅了された。

 ラファウは研究資料を逮捕前に森の中に隠しており、第二章ではそれをたまたま見つけた人が研究を受け継ぐことになる。
 もし、教会側やそれだけでなく天動説を定説だと思っている人ならすぐに問題にならないように処分したか関わりたくないとスルーするだろう。
 読者としては物語全体を知ることが出来るが、ラファウを始め地動説を信じて託していく人たちはそうではない。だけど、僅かな可能性を信じて、異端とされている説を残して託していく。
 それは僕にとっては期待より失敗と恐怖の方が大きい気がするが、皆満身創痍で人生を終えていく。
 残していく人たちは誰かが自分の研究を次いで、地動説が正しいと証明された時には公にしてくれるだろうという期待を現世に残し、自分の感動したものに人生を捧げたことを心から誇りに思ってこの世を去っていくのだ。
 僕ははたしてその領域に達するものに人生で出会えるのだろうか。

 また、この作品は随所に哲学的な考えや、宗教的な考えがキャラクターのバックボーンに組み込まれているのが面白いところ。
 例えば、第二章からヨレンタという女性が登場する。彼女は知的好奇心があり数学的な頭脳は天才にも関わず「女だから」という理由で自由に研究ができなかった。
 ヨレンタは地動説に出会い成長していくなかで、父親の影響で宗教的な考えが骨組みとはなっているが、神が世界を導いてくれているのだから、歴史というのは悪い出来事を含めてすべての出来事には意味があり、歴史が進んでいくことで少しずつ人類はいい方向に向かっていく、だから私たちはそのパーツに過ぎないという達観的な考えを持っていく。
 これは時間とは『過去から未来』へ一方通行に進むべきものであり、未来とはいわば過去という未熟の時代からより改善された優れている時間であり歴史が進むにつれて人間は真理に近づいているという過去に根付いていた西洋史における時間の考え方によく似ている。

 第3章に登場するドゥラカという少女はお金がすべてだという考え方を持っていた。しかし、当時お金を稼ぐことは、天国へ行くことを難しくさせる卑しい行為とされている。実際にこの考えはアダム・スミスが神の見えざる手という経済学を提唱してお金を稼ぐことは別に悪くないという考えが広まる前には一般的な考えであった。
 さらに、ドゥルガはお金儲けをするためには働いている人に一律で報酬を支払うのではなく功労者と怠け者で報酬を差別化することで競争が生まれ、それが集団にとってはいい結果になり、村でやっている作業の役割を専門化していけば効率と品質が向上すると訴えていた。
 これはまさに現代資本主義の土台となっている考え方であり、ドゥラカは15世紀に生きるキャラクターなので18世紀に確立された資本主義や17世紀にアダム・スミスが提唱してから学術化された経済学を先取りしている。
 まあ、そもそもドゥルガは架空のキャラクターなので、作者が考えをキャラクターに落とし込んだのであるが、その考え方を持ってくるのは非常に面白かった。

 つまり、『チ。‐地球の運動について‐』は情熱的なエンタメ作品として純粋に楽しめるだけでなく、天文学や宗教、哲学にも興味が持てる素晴らしい作品なのだ。







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