白塗りの娼婦「ハマのメリーさん」
この季節になると思い出される人がいます。クリスマスソングが鳴り響く町でその人を見かけたのは1990年代の初めです。横浜の伊勢佐木町にある行きつけの書店に足を運んだ私は、書店を出たところで一人の女性に目が留まりました。顔を真っ白に塗りたくり、白いロングドレスに身を包んだ年老いた女性が背中を少し丸めてそこに立っていたのです。正直なところぎょっとしました。真っ赤な口紅に太いアイラインが異様な感じでした。脇には大きな荷物が置かれていました。周囲から完全に浮き上がり、他を寄せ付けない雰囲気が漂っていました。
「いったいだれだろう」興味をそそられましたが、当時はインターネットで調べることも一般的ではなかった時代です。わからないまま数年が過ぎ、その後見かけることもありませんでした。そして彼女が「ハマのメリーさん」として知られる外国人相手の娼婦であることを知ったのは、女優の五大路子さんが彼女をモデルにした一人芝居『横浜ローザ』を上演しているという話を耳にした時です。私自身は五大さんの芝居を見たことはありませんが、「メリーさん」について書かれた本を読んだりして、自分なりに調べてきました。それによると私が見かけたときのメリーさんは60代後半だったと思われます。
五大さんは1996年から20年以上この一人芝居を続け、その経緯を2020年に『横浜ローザ、25年目の手紙』(有隣堂)という本にまとめています。本の解説は以下のように記されています。
五大さんが出版を考えたのは2018年。きっかけは自分自身を見つめ直すためだったと言います。ローザの命をつむぎだすことに夢中で、過去を振り返る余裕はなかったが、あと2年で25年になることに気付き、「舞台では伝えられる人数が限られるが、文字にすればより多くの人に伝えられる」と思ったそうです。
本は以下の3部構成になっています。
第1章:白い顔の娼婦 メリーさんの伝説
第2章:赤い靴のローザ 横浜からニューヨークへ
第3章:マリンブルーの街でローザは変わり続ける
五大さんは「コロナ禍で閉塞感が漂い、戦時中とは違うがとても生きづらい時代。戦争から立ち上がって生き抜いてきた人がいるように、現在のつらい状況をどう生き抜いていけばいいのか、生きることとは何かを問いかけたい」と言います。(横浜経済新聞のインタビュー2020年12月3日より)
「娼婦」というととかく蔑視の対象とされることが多いですが、その背景は多様で、社会的要因も大きく関わっています。私がメリーさんを見かけたときに「ぎょっとした」のももしかしたら偏見によるものだったのかもしれません。
先日この本を読んでみました。その中で特に印象に残った記述があります。ニューヨーク公演を前に芸術監督からセリフの中の「性の防波堤」という言葉を別の言葉にできないかと言われたことです。「昭和二十年、戦争に負けた日本に四十万人の進駐軍兵士が送られ、横浜には十万人の兵士が駐留しt
。伊勢佐木町周辺にはかまぼこ兵舎が建ち並び、星条旗が翻っていた。そのような中で日本政府は一般女性への性犯罪を防ぐため「特殊慰安施設」を作り、売春婦を募集した(同書p86 )」。
「性の防波堤」という表現は当時の日本政府が企図したことを的確に表す言葉だと私は思います。しかし、一般公演、それも海外での公演となると言葉の使い方ひとつにも制限がかかるのでしょう。五大さんは悩みますが、結局この言葉をカットしても思いは伝えられると判断してカットを受け入れます。
また、五大さんが神奈川県立公文書館で調べた終戦後の娼婦たちの記録にも心が痛みました。何人かを紹介します。
同書は、故郷に帰ったメリーさんが、生前親しかったシャンソン歌手の元次郎さんに宛てた手紙で始まります。丁寧な文字にはメリーさんのやさしさがにじみ出ていると五大さんは言います。元次郎さんも終戦後歌手を目指して上京しますが、食うや食わずの生活から男娼になり、その後シャンソンバーを経営してメリーさんと親しくなります。私も知り合いに誘われて一度だけ元次郎さんのお店に行ったことがありますが、心が広く温かみのある魅力的な人でした。孤高の娼婦であるメリーさんが心を開くのも分かる気がします。
2006年に公開されたドキュメンタリー映画『横浜メリー』(中村高寛監督)もメリーさんの生きざまを追った素晴らしい作品です。映画の最後に故郷である中国地方の町の介護施設に暮らすメリーさんの素顔がカメラに映し出されました。メリーさんは2005年に亡くなっていますから、その少し前に撮影されたのだと思われます。化粧を落としたメリーさんの美しさに私は息を飲みました。白塗りの女性とはまったく別の女性がそこにいました。声は発せらていませんが、かすかに微笑むメリーさんの顔は気品にあふれ、神々しささえ感じられました。
*ヘッダーの写真は横浜経済新聞より