「一応東大です」の裏にあるもの
東大に合格した人が「おめでとう! どこの大学?」と聞かれて「一応東大です」と答えることが少なからずあるようです。私も時々耳にします。親の中にもそのように答える人がいます。
なぜ「一応」と言うのでしょう。考えられるのは、東大に合格したことを謙遜している、自慢していると思われたくない、自分の優秀さをひけらかしたくないなどです。謙虚なふりをして実は自慢していると言う人もいます。いずれにしても日本では今も東大が大学ヒエラルキーの頂点にあり、合格した人もそれを認識しているということなのでしょう。
私は大学生と接するとき、最初に「どこの大学?」と聞くことはほとんどありません。まず聞くのは「何を勉強する(している)の?」とか「専攻は何?」です。大学に行くのは何かを学ぶためであって、特定の大学に行くことが目的ではないと思うからです。
日本では「何を学んでいるか」より「どこの大学に行っているか」を先に問うことが多いように感じます。そうした印象が強くなったのはオーストラリアの大学生と付き合うことが多いからかもしれません。個人的な印象かもしれませんがオーストラリアの大学生に「どこの大学に合格したの?」とか「どこの大学に行ってるの?」と聞くことはあまり意味のない質問のように思えます。中にはそう聞かれて戸惑った様子を見せる人もいます。でも、「何を勉強しているの?」とか「何を専攻しているの?」と聞くと「コンピュータ・サイエンスです」とか「犯罪心理学です」「ジェームズ・ジョイスを研究しています」などと具体的な内容を即座に答えます。「文学部です」とか「法学部です」などと学部を答えることも少ないように感じます。
オーストラリアにも大学のヒエラルキーがないわけではありませんが、日本ほどではありません。そもそも大学は全国に40校ほどしかありませんし、ほとんどが国立(州立)です。日本のような偏差値によるランク付けもあまりありません。もちろんシドニー大学やメルボルン大学など伝統ある大学は知名度も高いですし、それなりに入学は難しいです。大学による合格ラインの違いもありますが、日本ほどではありません。
さらに学生たちは自分が何を学びたいかによって大学を選びます。どの大学に行けば自分のやりたいことが出来るか、将来に結びつく学びができるのはどの大学か考えて選びます。学びたいことが最初にあり、それを実現するための場である大学は次に来ます。自分のやりたいことができない大学は選びません。無駄だと思うからです。大学に行く必要がないのに大学に行くこともありませんし、大学よりも専門学校の方が自分の将来設計に向いていると思えば専門学校を選びます。さらに特定の大学だったらどの学部でもよいなんていうこともありません。少なくとも私はそういう人に会ったことがありません。大学はあくまでも将来に向けた選択肢のひとつです。だからオーストラリアでは「一応○○大学に行っています」と言う学生に出会ったこともありません。
合理性があるのはどちらだろうと考えてしまいます。