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助けを必要としている人がいるのだから

ガザの軍事衝突で犠牲者が増え続ける今、第二次世界大戦中にナチス・ドイツに追われた数多くのユダヤ人にビザを発給して命を救った外交官の杉原千畝氏に対する批判がSNSなどで相次いでいるそうです。「なぜユダヤ人を救ったのか」という批判です。そんな中、杉原氏の孫である杉原まどかさんが祖父の足跡を追い、人道主義の意味と向き合う様子を伝える番組が28日にNHKで放送されました。


杉原氏のことは以前にもこのnoteで書きましたが、番組を見て改めて氏の功績について考えてみたいと思いました。

私がリトアニアの旧日本領事館を訪れたのは5年前の2019年です。領事として外務省からリトアニアに派遣されていた杉原氏が執務を行っていたところです。旧領事館はかつての首都カウナス(現在の首都はビリニュス)の中心部から少し離れた、緑豊かな高台の住宅地にありました。現在は杉原記念館として一般公開されています。

杉原氏が赴任したのは1939年。大戦が勃発する直前です。戦争が始まると杉原氏のもとにはナチスに迫害されたユダヤ人が山のように訪れ、ビザの発給を求めます。ユダヤ人が迫害を逃れて生き残るためには、ヨーロッパを脱出し、米国に渡ることが唯一の道だったからです。脱出にはロシアのシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、さらに船で日本に渡り、そこから米国に向かいます。そのためには日本通過のビザが必要です。けれども日本政府はビザの発給を認めていませんでした。

ユダヤ人の苦境を目の当たりにした杉原氏は、「私を頼ってくる人々を見捨てることはできない」と日本政府の命令に背いて独断でビザを発給する決断をします。母国の命に背いての行動は苦渋の決断だったと思います。手書きのビザは2千通以上になり、家族を含めると6千人以上のユダヤ人を救ったと言われています。

杉原氏の偉業はリトアニアでも高く評価され、首都ビリニュスには記念碑が建てられていました。日本でも多くの人に知られ映画も作られています。私もユダヤ人を救った人道的な人物として杉原氏のことは知っていましたが、実際に現地を訪れて自分がきわめて表層的な知識しか持っていなかったことに気づきました。 

再現された執務室には杉原氏が使用していた机と椅子が置かれており、発給リストやビザのコピーも展示されていました。私は椅子に腰を下ろしてみました。そして杉原氏はどのような気持ちでペンを走らせていたのだろうと想像しました。胸がつまりました。現地でしか味わえない気持ちです。

2階には杉原一家の居住スペースがあり、家族の写真が飾られていました。写真からは温かい家族の様子がうかがわれます。ベランダに出るとビザを求める人々が押し寄せる光景が目に浮かんできました。

母国の命令に背いてまでして杉原氏がビザ発給に駆り立てたものは何だったのだろう、どんな気持ちでサインをしていたのだろうと考えずにはいられませんでした。「人類愛」などという言葉では簡単に片づけられない思いが杉原氏の心の中にあったのではないかと思います。


記念館
記念館の入り口
記念館の案内板
杉原氏の執務机
執務机に置かれた書類。ビザ発給者のリストもありました。
館内には様々な資料が展示されています
発給されたビザのコピー
2階のベランダからの眺め。妻の幸子さんは庭に2本のリンゴの苗木を植えたそうです。80年経った今、木は天に向かって大きく伸びています。


ガザを、そして今はレバノンも攻撃して多くの命を奪っているイスラエルはユダヤ人の国家です。だからと言って多くのユダヤ人を助けた杉原氏の行動を安易に非難することは正しいことでしょうか。番組でまどかさんは生前の杉原氏が残した言葉を伝えていました。「ユダヤ人だから助けたのではない。どんな民族でも僕は助けた」ということばです。政府と国民とを短絡的に結びつけることにも疑問を感じます。

まどかさんはポーランドも訪れていました。旧ナチスのアウシュビッツ強制収容所で「助かった命」と「助からなかった命」について考えておられます。杉原氏の意志はお孫さんにしっかり受け継がれていると私は感じました。

私もリトアニアからポーランドに行き、アウシュビッツを訪れました。その時のことは以下の記事に書きました。


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