148 屈強な体育教師が生徒の待ち伏せを怖れるようになった
仕事が終わり職員室で帰宅する準備をしていた時、隣の席の男性教師がだれにともなくぼそりと言うのが聞こえました。「生徒が待ち伏せしてないだろうな」
彼も部活の指導を終えて帰宅するところでしたが、私は耳を疑いました。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったからです。彼は体育教師。背が高く、屈強な体で、筋骨隆々の男性です。失礼ですが私には巨大なトドを連想させる体つきです。学生時代からバレーボールをやっており、バレー部の顧問をしています。練習は厳しく、いつも怒鳴り声が聞こえます。生徒も恐れています。そんな彼が生徒の待ち伏せを心配するなんて意外でした。
学校はその年荒れていました。生徒の問題行動が多発し、暴力事件も起きていました。対教師暴力も見られました。彼もたびたび生徒と口論になることがありました。でも暴力を振るわれたことはありません。彼に暴力をふるう生徒がいたとしたらよほどの強者です。
そんな中で発せられた先のことばは冗談のようにも聞こえました。でも冗談ではなく本心であることが徐々にわかってきます。生徒が校内で問題行動を起こすと数名の教師がその場にすぐ駆け付けます。特に生徒指導部の教師は真っ先に足を運びます。彼も生徒指導部に属しており、以前はすぐに駆け付けていました。
ところがいつのころからか彼は遅れてくるようになりました。生徒が暴れている場合はたいてい力のある男性教師が止めに入ります。でも彼はいつも後ろの方にいます。女性教師が前面に立つこともありますが、その場合も彼は一歩下がったところにいます。男性も女性も関係ないかもしれませんが少なくとも私などは男子生徒の力には敵いません。「トド氏」には最前線に出てもらいたいと私は思っていましたが、やがて彼は現場にも姿を見せないようになりました。そんな彼を批判する教員も少しづつ増えていきました。
その後ほどなくして彼は療養休暇に入りました。精神疾患によるものです。その原因が学校の「荒れ」にあるのかどうかはわかりません。でも私にはまったく無関係とは思えませんでした。