【 孤独のチカラ 】

かまちがもし今のネット社会に生まれていたら
きっと反感をかったにちがいない。
絶望に打ちひしがれ もっと早くに亡くなっていたかも。

至極真っ当に 純粋に生きるというのは
今まで以上に過酷な決意が求められてくる。

何を信じ、何を選び取るかによって
生きかたは大きく変わるはずだ。

たいへん残念ではあるけど、
大衆意識というのは決してキレイなものばかりではない。
売れるもの、持て囃されるものとの条件下において
幾重にもいろんな色が混ざり合って
それが虹色のようにキレイだというのは理想にすぎず、
ほんとうのところは泥水のように混濁した黄土色だ。

まるで絵の具の筆を溶いた水のように。

そんななか純粋さはまるで純度の高い油のようで
大衆意識からまるきり外れて浮く存在。どうしてもはみ出てしまう。

 

孤独にちがいない。


それを悪く言い、否定的に追い払おうとする大衆意識側の人は
数多く存在するけど、けっして負けないでほしい。

彼らは弱いのだ。
数の力で勝ってる分、自分より優位に考えがちだけど、

もし独りになったとき、
フォロワーもイイネも消えて
あなたと一対一で対峙したとき、

必ず あなたのほうが上を行く。
迷いがない。一本筋が通っているから。

たしかに孤独だと思う。
その状況下においても孤独は消えないかもしれない。

でもずっと孤独をかみしめてきた分、それが強さとなる。
その場しのぎの同調共感で満たされ続けてきた人には
孤独の準備期間がない。寒さが身に堪え過ぎるのだ。

期せずして
あなたは孤独のチカラを身に着けてしまった。

弱い人が孤独に陥りやすいとの見解が一般的だけど、それはある意味間違い。

たしかに精神的弱さから独りになってしまう部分もある。
けれども逆に孤独が孤独なりの強さを生む。だから最終強くなる。

 ・

いつだったか寺山修司の本を読んだ折、
その昔、自慰行為がやめられなくなって罪悪感のあまり自殺した青年がいた ――
とのエピソードが添えられていて、彼はそれを「詩」だと言っていた。

この話はぼくのなかで何か強烈なインパクトを残していて、
このご時世、自慰がやめられないくらいで死ぬ若者がいるだろうか?と
よくよく思い出すのだけど、

逆にもっと安直な理由、つまり「いじめ」が嫌で辛くて
死んでしまうという、直接死に結びつくような『脆さ』はよく耳にする。

おそらく彼にいわせるといじめによる自殺は「詩」ではないのだろう。

これはぼくなりの解釈なので実際はちがう可能性もあるのだが
誤解を恐れず言ってしまうと

後者は「想像性の足りなさ」が招いた死
前者は「想像性の豊かさ」が招いた死 だからではないか

いじめの死はただいじめから逃れたい一心で死を選んだ。
けれども自慰の罪悪感はある種おのれの覚悟が窺い知れる。

自死に正しいも間違いもないとは思う。
けれども「自ら選んだ自死」と「脳にだまされた自死」とでは
何かが決定的にちがう気がする。

Pさんのいってた
「やらされてる感」と「生かされてる感」のちがいと似てるかもしれない

とにかくぼくは孤独だけども 決して孤独に負ける気がしない。
それを幸福と読む人もいるだろうけど自分ではよくわからない。

これだけ充実していて
それでもまだ満たされないっていうこと自体、不幸なようにも思うし。

でも幸せになれるからといって降伏したくはないのだ。
それは怠慢だから。怠慢の見せるニセの幸福にちがいないのだから。

 ぼくは孤独である。

でもそれこそがぼくの幸福なのかもしれない。

20101125


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