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日本人は凄いのだ!!

今回も前回記事の続きで、東北旅行で感じたことを記そうと思う。

それは、米沢を旅し、歴史探訪をして、「日本人は凄いんだな‥」と、改めて感じたことの話だ。

米沢は、上杉氏の城下町である。

「米沢藩」の創設期から、関ヶ原で徳川家康に敵対しており、特に時の家老・直江兼続は家康に「直江状」という、ケンカ腰の書状を送ったことから、会津120万石から米沢30万石となり、最初から「外様大名」の中でもひときわ冷遇されていたと言えるだろう。

しかし、この時から、直江兼続や時の大名・上杉景勝は、石高が4分の1になったにも関わらず、1人の家臣の首も切ることはなかったというのは、今に伝わる話だ。

しかし、米沢藩のハイライトは、何といっても9代藩主・上杉鷹山が驚異的に藩を立ち直らせたことにあると言えるだろう。

九州の日向高鍋藩(地理か高校野球に詳しい人は分かかもしれないが、今の宮崎県)の藩主の次男として生まれた鷹山は、次男であったため、幼少期に米沢藩に養子として迎えられ、19歳で藩主に就任して米沢に足を踏み入れることとなる。

この時代の米沢藩は風紀が乱れて政治も混乱し、幕府から藩が取り潰される危機感すら漂っていた。領民も貧困や飢餓に苦しんでいたという。

上杉鷹山は悪しき体質を排除して自らも質素倹約に率先して務め、また藩校「米沢興譲館」(現在も山形県立米沢興譲館高校として続く)を創設して藩士の子弟のみならず農民の子息にも教育を普及させ、その一方では各地から職人を招いて指導を仰ぎ、今日に伝わる「米沢織」やなど、領内の産業を充実させたという。また江戸から医学者を招いて藩をあげて薬学・医学を普及させていく、という好循環があり、藩としては遂に上杉鷹山死後に「貯蓄」が出来るほどに息を吹き返した。大飢饉の年も、藩の備蓄の成果があり、過去の大飢饉と違い、米沢藩領ではほとんど餓死する領民はいなかったという。

他にも、上杉鷹山が藩主に就任する際、「領民の父たる藩主となるぞ」という志を記した書や、あまりにも有名な、次期藩主に藩主としての志を伝えた「なせば成る なさねば成らぬ 何事も・・」という一文で知られる「伝国の辞」の石板などみてきて、全部歴史好きな私には感動だったが、やはり上杉鷹山の凄いところは、実話なのかは定かでないが、通りかかった畑で老婆の農作業を手伝い、「お礼をくれるならここに持ってきてくれ」と自ら老婆に頼み、訪れた老婆が、鷹山が米沢藩主その人だったと知って腰を抜かした・・という話や、改革の中で「既存の常識」に囚われなかったということ、特に「役人の息子は、無条件で後を継げる」ということを撤廃したり、自ら農民と共に鍬を振るって模範を示した伝説とか、領内に設置した意見書(徳川吉宗の目安箱みたいな感じだのだろうか?)には、上杉鷹山自ら、領民の嘆願に丁寧に目を通した・・という、「領民を藩主である自分と同じ人間だと思っていた」ことであろう。

これも真偽のほどは定かではないが、図らずも悲劇の最後の有名なJ・Fケネディ大統領は、最もリスペクトする政治家に、自国のリンカーンなどではなく「上杉鷹山」を挙げていた、というかなり有名な話がある。

アメリカの為政者の日本への発信など、あまり鵜呑みに出来ないものが多いのも事実だが、このケネディ大統領の上杉鷹山リスペクトは、信ぴょう性があると、私は思っている。

そして私は今、日本人であることを大げさでなく誇りに思う。

上杉鷹山の成し遂げたことは、日本人の冷静さ、粘り強さがあったからできた、そんな気がする。

この少し後の二宮金次郎や、戦後の復興を成し遂げた先人たちもそうだ。

戦後、戦勝国、特に・・ある国とか、によって、日本人は牙を抜かれ、権利があるのに選挙すら多くがいかない人種になった、という見方があるが、この島国ならではの独自の文化、歴史、それならではの民族性を持って、「実は現存する世界最古の文明国家」(諸説あるけどね)とも言われる国に生まれたことに誇りをもって生きていこう、米沢で偉大な名君の息吹に触れて、そう強く感じた。


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