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深海に漂う⑧

あの日の事は、なかった事に 考えないようにして送る今まで通りの日々。
仕事が忙しいのが有り難い。毎日、深夜に帰宅し泥のように眠る。朝は、ギリギリで飛び起きて、寝癖の頭で病院に向かって自転車を漕ぐ。

あれから半年、春姫の事を思い出す時間も少なくなった。

夏も残り少くなってきた頃、やっと夏季休暇がもらえた。私の病院は、夏休みと称して3日だけお休みがもらえる。
今までなら、そこに有給を足して春姫と1週間位の旅行をしていた。
今年は、買い物とストレス解消の登山に1日ずつ、最終日は自宅でのんびりすると決めた。
秋に向けて気持ちが上がる服が欲しくて、出てきた久し振りの都心部。平日だと言うのに、あまりに人が多くて辛くなる。早々に帰宅を決めて、駅に向かう。

!!
駅前の大通り、横断歩道を渡っている時、急に心臓がドクンっとなる。鼻の奥がツンとする。
何??期外収縮??
でも、その他の兆候はない。…なんだ?

遅れて気付く。

香りだ。あの夜の香り。

一瞬にして、あの日の記憶が蘇る。
あの時は、春姫の事で弱っていたから、人肌に触れる事で眠れたんだと思っていた。
だから、きっと誰でも良かった…はず。

なのに、フラッシュバックするように、今鮮明に思い出す。
耳元で聞こえた穏やかな声。
朝まで包まれていた微かな香り。
胸がギュっとなって、何故か泣きそうになる。急な感情に、理性が追いついていない。ずっと隠して押し殺している、ビアンとしての感情。
ノンケの人に、ホントの自分を見せたり、気持ちを伝える勇気は、私にはない。
なので、あの日の事は、忘れたい失敗。黒歴史だと過去にしまい込もうとしていた。

でも、もう一度逢いたい。
私は、あの人に逢いたいんだと気付く。
あの夜にはもう、春姫は「元」がつく存在になっていたのかもしれない。

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