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WD#119 ルシャトリエの夕暮れ

こうして暑い日々が続くと、自分の脈を通う血液さえも熱を帯びているかのようだ、と俺は車を降りて感じた。

地球温暖化、などという言葉が過去に叫ばれていたらしいが、最近はやや落ち着いてそんなことは誰も言わなくなった。しかし夏は依然暑い。その事実は揺るがないのだ。

俺は先輩を助手席に乗せて4軒目の住宅に向かった。俺、そして先輩は高齢者の住む住宅を訪れて医療器具を売る仕事をしている。言ってしまえば押し売りだが、しっかり広告の電話番号にかけてきた家に行っているので問題はない。

「すっごい入道雲ですね」

「ああこりゃあ一雨くるな。傘持ってるか?」

「いや、持ってないっすけど、まあなんとかなりますよ。俺の家駅近いんで。先輩は傘持ってるんすか?」

「ああ、持ってるよ。ていうか雨降らない日でもずっと持ってるな。そっちの方がいちいち気にかけなくて良くない?」

「あー確かに。なるほどなあ」

ナビから流れるラジオが知らないK-popを流す中、俺たちはこうしてなんの中身もない会話を交わしながら次の家に向かった。


しばらくするとだいぶ山の中に入って行った。廃校になった小学校の横を通り、集落のようになっているエリアに出た。

「なんか人の気配がない感じですね」

「この辺りも10年前くらいはたくさん人が住んでたそうだ。ただもうダメっぽいな」

地球温暖化はある程度解消されたものの、今度は著しい人口減少が問題となっていた。しかし具体的な原因はわかっていない。ある人は食糧不足と紐付け、またある人は医療の衰退と紐付けたりしたが、どれも実証されないまま終わってしまった。例え相関関係があろうと、そこに因果関係があるかはわからない。

大きな一軒家の前に車をとめ、引き戸をスライドさせて俺は「すみませーん!〇〇の者ですが、先日注文していただいた商品をお届けに参りました!!」と叫んだ。

しかし玄関の奥からは物音ひとつしない。俺と先輩は嫌な予感がして、「失礼しまーす」と言って家に入った。

すると、台所の方で人間の足が見え、駆けつけると80代後半あたりの女性が倒れていた。

「またかよ……。先輩、救急車お願いします」

「OK」

何故俺たちがこんなに慌てていないのかと言うと、高齢者を相手にすることが仕事の内容上多いこともあり、夏の暑さとも重なって、1人暮らしの高齢者の家に行ったら中で人が倒れている、というケースは全く珍しくなかったのだ。



救急隊員に運ばれるのを見送ってから、俺と先輩はまた車に乗り込み、次の目的地へ向かう。女性は亡くなっていたそうだ。

「在庫、また浮きましたね」

「こりゃあ今年も赤字かもな」

俺はわかりやすい作り笑いをした。何回か経験したとはいえ、人の死に対峙することはまだまだ慣れない。女性の身体に触れたとき、それが生きていたとは思えないほど冷たくなっていたことを思い出して、ハンドルを握る手が少し緩むのを感じた。

なんとなくお互い話しづらい雰囲気になっていたところ、先輩が口火を切った。

「なあ、日本の人口がすごい減ったのって、いつくらいがピークだったっけ」

「最近もまだ酷いっすけど、7〜8年前くらいですかね。あの時はもう日本終わるんだなーって思いましたもん。ていうか日本どころか世界中で減っていきましたよね。」

「そうだろ、でさ、気温が下がり始めたのって、5年前くらいからじゃん」

「そうっすね、なんか「地球温暖化終了宣言」みたいなのを国連が出しててだいぶニュースになってましたからね。」

「なんか関係してると思うんだよなあ……」

「なるほど……」

確かに、言われてみればそうだ。人口減少のピークを迎えてから2年くらいで、気温は下がり始めた。地球スケールの現象がこんな間隔で引き起こるのは違和感がある。ただし、そこに相関がない限りは。

「化学平衡の移動って覚えてるか?」

再び先輩が話し出す。

「あーなんか高校でやりました。あの辺苦手だったからあんまり覚えてないんですけど、なんでしたっけ、変化を打ち消すように平衡状態が移動するやつですよね?ナンタラの原理みたいな……」

「そうそう、発熱反応で平衡状態に達したところの温度を上げると、温度を下げようとして逆向きの反応、つまり吸熱反応が進むみたいなやつだよ。」

急に先輩が教科書みたいな話し方になったのでちょっと驚いた。

「で、それが何なんすか?」

「これってさ、地球規模でも起きてるんじゃないかなって思うんだ」

「地球規模で……?平衡の移動が……?」

「まあだからさ、地球もバランスを求めてるわけよ。あれだけ高い気温に地球も耐えかねたから、人を減らして気温を下げようとしたんじゃないかって」

「人が死ぬと気温が下がるんすか?」

「お前もわかるだろ?亡くなった人ってのは命のエネルギーを失って冷たくなるんだ。で、逆に人が生まれるときってのは温かいわけだ」

確かに、と俺は言った。兄が結婚して子供ができたとき、俺も抱きかかえさせてもらったが、その温もりに驚いたのを思い出した。そうか、命ってこんなに温かいんだな、と思ったんだ、確か。

「じゃあ、人が生まれるのが発熱反応で、死ぬのが吸熱反応ってことですか?」

「まあそういうことになるな。」

「確かにそうすると、人口減少の後すぐに気温が下がり始めたのって納得できますね」

「まあな。でも正直人の生き死にで気温が変わるわけないし、デタラメなんだけど、ちょっと考えてみただけ」



俺は昔読んだ「君たちはどう生きるか」という本の冒頭で、主人公が「人間分子論」を子供ながらに想像するシーンを思い出した。ざっくり言えば人間も分子のようなものではないか、ということだ。

俺たちは、ただの分子と何が違うんだろうか。地球規模で見れば俺も分子くらいのスケールだから(本当はもっと小さいが)、その振る舞いも分子みたいになってるのだろうか。

生きることの規模なんて、所詮そんなものなのかもしれない。

気づけばもう夕方になっていた。さっき見えた入道雲が赤く照らされていて、その凹凸がより鮮明に可視化されていた。

俺は左胸を触れ、心臓の鼓動を確かめた。なんとなく、自分が今生きているということを、確かめたかっただけだ。

「今日は早めに終わりましょうか。」

先輩にそう言った。ナビから流れるラジオから天気予報が流れ、この後の雨を告げた。








【今週の来てないお悩み相談】

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