WD#53 雑書2
リズム
音楽を聴きながら歩いていると、期せずして歩調が聴いている音楽のリズムに一致し始めてくる時がある。その度に私はなんだかノリノリで歩いている人みたいで恥ずかしくなりわざと歩調を乱したりするのだが、よく考えたら周りからはそんなこと一切わからないのでやる意味がないのかもしれない。しかも、歩調を故意に乱してもまた気づけば音楽のリズムと一致している。これが共鳴というやつなのか。
補助線
先日に高校の離任式があった。大体10人くらいの先生が離任されて、その中では半分くらい知ってた。だが、一人当たり10分くらい話していたためだんだん体育座りで聞いている我々のHPゲージもすり減り、後半はただ「耐える」時間が流れた。せっかくの離任式でそんなことになって良いわけないだろ。
そんな後半の中で、私は教えてもらったことのない音楽の先生の話があったのだが、その音楽の先生の言葉に、こういうものがあった。「閃(ひらめ)きとは、自分の中で何かと何かがつながることを言います。あなたたちが日々勉強しているのは、そういった「閃きの補助線」を増やすためなんですよ。」といった感じ。この言葉、良すぎませんか?
自分の知識を増やすことで、様々な角度から「閃きの補助線」というものを引けるようになる、ということである。今まで、なぜ勉強するのかという問いに対して、将来の選択肢が増えるというのが割とオーソドックスな解答であったが、この表現はできない。本質は同じでも、ここまで美しい言葉で表すことができたのか、と感動した。私も今後なぜ勉強するのかという問いに対してはこう言うようにしよう。
などと思っていたのだが、その時はほぼ全員キツい姿勢に疲弊しきっていたのでほとんど誰も覚えてないんだろうな。
スペイン情勢
ある日散髪に行った。あんまり人はいなかったので、これはスムーズに終わるかな(以前に述べたように私は散髪が非常に嫌いである)と思いながら兄と共に入店したところ、とりあえず兄が先に切るということになり私はすこーし待たされた。
すると3分も経たないうちに「じゃあシャンプーするんでこちらへどうぞー」と誘導されたため、なされるがままに髪を濡らした。
そしていよいよカットなのだが、「こちらの席へどうぞー」と座らされたのちに、「少しお待ちください」と言い放ち、タブレットを置いてどこかに行った。いやいや、と思ったが何の抵抗もできない私はそのタブレットに目をやると、よくある散髪屋の雑誌が全てデジタル化されてそのタブレットに集約されていた。
それを読むこと以外できることがなかったので、なんか適当に開いてみたら、「コロナ禍からの復帰がとても早かったスペインの街の様子」という特集があったため、特に意味もなくその記事を熟読した。どうやらスペインはかなり早い段階でコロナ死者数の報道をやめて、経済に力を回したらしい。その成果としてなんと国内の鉄道の無償化が実現し、さらにそれにより人の往来が多くなりまた経済が回るというかつてない好循環らしい。いいなあスペイン。
そんな感じで30分ほど待たされた。
弓矢
兄がたまに「銃を向けられるより、弓矢を向けられる方がよっぽど怖い」という話をする。これに私はとても共感した。確かに銃を向けられるより弓矢で狙われる方が怖い。しかし、いったいなぜそう感じるのだろうか。ここで弓矢の持つ恐怖要素をいくつか考えてみたい。
・明らかに鋭利な刃
まず最初に思い浮かぶのはこれである。銃というのは中に弾丸が仕込まれているため、銃をいざ向けられても私から見えるのは鉛色の手に収まるサイズの何かであり、この外見からすぐには死を感じることはない。しかし弓矢はどうだ。先の尖ったよく飛びそうなものを今にも発射しそうにこちらに向けている。ここには明らかな「死の予感」しかない。相手が手を離せばその鋭いやつがこっちに来る。怖すぎる。
そして何より痛そう。弾丸が当たるのと、矢が突き刺さるのを考えた(なるべく考えたくないが)とき、矢の方がなんか痛そう。あと「突き刺さる」という言葉の語感からもその痛みは顕著である。刺さるんじゃない。「突き刺さる」のだ。怖すぎる。
・弓を張ることで力がひしひしと伝わる
恐怖の要素は何も矢に限ったことではない。弓にもしっかりと我々を恐怖に陥れる要素を備えている。なんて恐ろしい武器なんだ。
矢を飛ばすには、弓を使う。弓を手でぐぐ〜っと引いて限界まで力学的エネルギーを上昇させてから信じられない速さで矢を放つ。この「ぐぐ〜」がすげー怖くないですか?明らかにそこに力が加わってるのがわかるし、その力が確実に自分を殺(や)るのに使われているという事実も怖い。技を使った1ターン後に技が放たれる、ゴッドバードみたいな恐怖感が、ここに確かにある。
・「射る」という動詞
「撃つ」より、「射る」の方が怖い。「射る」なんて日常生活で使うわけないので、そのレアさからもここの恐怖はうかがえる。
・弓矢を見慣れていない
銃は結構ゲームの武器とかの中でもメジャーな方なのである程度は見たことがある人が多いと思うし、いまさら銃を見て「ヒッ……」となる人はそうそういないであろう。しかし弓矢はどうだ。ゲームのキャラクターの中でもアーチャーなんてごくわずかだろ。そう、銃に比べて弓矢は全く見たことがないに等しい。その分だけ、いざ対峙したら弓矢の方が怖い。
ざっと挙げるとまずこのくらい思い浮かぶ。もっと考えればこの底知れない恐怖の源を突き止めることができるのだろうが、そんなことをする気はない。とにかく、「弓矢に狙われると怖すぎるよね」という共感を得るためだけの行為であった。
ポケモンカード
私はかなりポケモンカードをやっていた(つまり今はやっていない)。全盛期は、EXからGXのあたり。あのあたりはめちゃくちゃやってたなあ。同じマンションの友人とガレージでよくやってた。楽しかったなあ…
とまあ懐古するのは勝手で、本題はそこではない。問題は、最近のポケモンカードが株みたいに取り扱われているのがとても腹立たしいという点である。
最近のポケモンカードがどんな醜い扱いを受けているか皆さんご存知だろうか。まず、ポケモンカードにはレアリティというものがあって、すごく出やすいアンコモンから、滅多に出ないウルトラレアまで幅広くレアリティが存在しているのだが、このレアリティが高いやつが、まあそれはそれは高く売れる。
そのため、高く売れるカードを当てるために新弾が発売されるたび多くの人が取扱店に押しかけ、昼頃にはどこもかしこも売り切れ、というような状況になっているらしい。中には前日から並んで買う人もいるんだとか。果たしてそういう人は、自分がいかにはしたないか自覚しているのだろうか。まあしてないんだろうな。だからそういうことをする。
たまにポケモンカードの開封動画とかが流れてくることがあるのだが、それを見ていてもなんかいやーな気持ちになる。自分だったらすごく喜ぶような強いカードがぞんざいに扱われ、対して強くもないがキラッキラしてるやつだけスリーブに入れたりしてカメラに見せる。しかも、一気に3ボックス(単純計算して、450枚)を一気に開けたりするのだ。もうちょっと賢く金使えよ。
確かにキラキラしてるやつは珍しいし、高い値段がつくのもわかるが、それを獲得し、大して使いもしないやつがそれを持つのは意味がわからない。例えキラキラしててもデッキに入れろよ。それで初めてカードとしての意味をなすんじゃないのか。
絵柄だけで前日から並んだり、転売したり、人間の醜い部分が完全に露呈している。それを映し出しているのがポケモンカードであるというこの事実も非常にしんどい。自分がやってた頃はこんな愚行が横行してなかったのに、いつからこうなってしまったんだろう。もっとさ、ダブル無色エネルギーとかが高く取引されるべきだよ。アレ便利すぎるもん。
最後に、最近見た開封系のやつで「これよ!これ!嬉しい!」と思ったやつを一個載せておく。これが理想像。
なかまわけ
理科(生物)の授業において、「なかまわけ」ということをした経験は誰しもある。例えば、イルカとライオンは哺乳類というなかまである、といった感じ。生物分野の中でもかなり簡単な方で、遺伝子とか言われたら鉛筆を投げ出すという人もいるとかいないとか。
そして、私はこの「なかまわけ」という言葉を見るたびに、なんか可愛いなあ、と思う。こんなにしっかりした学問でも、同じ特徴を持つ生物を「仲間」として捉えているというのがなんかいい。もしかしたらこういうのは、人間の潜在的なアニミズムによる考え方なのかもしれないとか考えてみたりする今日この頃。
外の世界
マイクラには、モブや作った装置などが自分からどれくらいまで離れていても動くか、という範囲制限がある。つまり、この範囲より外に装置がある場合、起動させても動かない。この仕様はマイクラが重くならないようにする、ゲームならではの仕様なのである。
しかし、私は時々、こういう範囲が自分にもあるんじゃないか、と考えてしまう。どういうことかというと、テレビなどで東京の映像とか海外の映像を見たときふと、「本当にこんな場所があるのか」という疑念に駆られることがある。もちろん、東京も海外も存在しているということは自覚している。しかし、その存在を示すものが今のところ私にはない。東京にも海外にも行ったことがないからだ。
こう考えると、自分が存在を認知している範囲なんてごくわずかで、そこより外の範囲は自分が移動するたびに生成され、動き出しているとすることも無理はない気がする。自分がその範囲に立ち入らない限り、「外の世界」は存在していないか、または静止していても、私はそれに気づくことはできない。何故ならその現象を知覚できる範囲の中にいないから。
この考え方はかなり陰謀論と紙一重である。「コロナウイルスはデマだ」とか、「岸田首相はクローンだ」とか、そのあたりの存在しているかどうかという陰謀論も、自分自身の知覚できる範囲の外のことだから生まれた陰謀論なのであろう。
じゃあ私の考え方は陰謀論なのかと言われるとそこは否定したい。なぜなら、私の考え方はあくまで「自分の知覚できる範囲の外の世界は本当は随時生成されているのかもしれない」という可能性の話で、ここに「だから外の世界は存在していないのだ」と決定打を打つと陰謀論と化す。知覚できない外の世界なのに、それに確実も不確実もない。ここからはリテラシーの話になっていく。
なぜこんなに陰謀論との差別化を図ろうとするのかというと、自分がまともな人間であることをアピールしたいという感情にすぎない。
ミニストップ
YouTubeで、とある人がふと「ミニストップってどこからでも遠いですよね」と言っていて、すごいと思った。確かにミニストップは日本のどの地点からも遠い。
SF
SFとは何の略かご存知だろうか。Science Fiction の略である。つまりは「空想科学」。しかし、世に出回るSF作品を見ると、この「Science」の要素が薄いものが多く、とにかく宇宙とかに行って闘う物語が大半を占める。そこで、『ドラえもん』の作者でお馴染みの藤子・F・不二雄先生はSFを「すこし ふしぎ」の略だといい、そのコンセプトに沿って藤子・F・不二雄先生自身もSF物語をいくつも描いている。
そんな藤子・F・不二雄作のSF短編集がまとめられたやつが発売されたので、早速買って読んだ。感想としては、めちゃくちゃ怖い。怖い、と一言にまとめていいのかはわからないが、とにかく感情がグチャグチャになる。家で1人の時に一冊読んだのだが、もういてもたってもいられなくなった。それくらい。
何が怖いかというと、もちろんストーリーは怖い。そしてなによりも、その怖いストーリーが『ドラえもん』の画風で描かれているという点が非常に怖い。あののんびり穏やかな漫画のタッチのまま、普通に人体損傷描写を投げ込んできたりする(私はそもそも人体損傷描写が非常に苦手である)。ただ、ストーリーは怖いがそれと同じくらいとても面白いのでついつい読んでラストで嫌な気持ちになったりする。
どこがどう怖いとか、そういう発言はネタバレに繋がるのでここでは書かないが、あの『ドラえもん』の画風で繰り広げられる藤子・F・不二雄のSFの世界を、皆さんも一度体験してほしい。金銭を払う価値はある。
ロードバイク
電車に乗っていたら、ある駅で折りたたみ式ロードバイクを担いだ若い男性が乗ってきた。見ただけでもわかるほどのスポーツマンという感じで、ロードバイク乗りますよみたいな服装をしていた。
すると、その男性は次の駅で降りた。この距離、そのロードバイクで行けだと思うんですけど。どうなんでしょう。わざわざ少しだけ金銭を払う羽目になってしまっているが、本人はそれで納得しているのだろうか。
【今週の素人星座占い】
七位 牡牛座
外を歩いていたらたまたま雨が降り出し、その時たまたま折り畳み傘をもっていたから良かったものの、10分後くらいに晴れて、その中途半端に濡れた折り畳み傘の扱いに困ることになるでしょう。思い切ってリュックに突っ込んでみると吉。