雑書 Special Box
今までの日記で2回登場した「雑書(ざつがき)」、これは一個の日記を構成するほど長くは書けないけど、なんとなく書きたい短い話をたくさん詰め込んだバリューパックのことなのですが、まあこれが人気ないんだわ。
1回分だけで何個も違う話が読めるのはワクワクするはずなのだが、なんでだろう。人の気持ちってのはいつもわかんないなあ。
なので、日記という媒体で人気がないなら、この新作記事ウィークに出せばもっと読んでもらえるんじゃないだろうか、という策略である。
実はこの雑書というフォーマットは日常的にコツコツ書いていて、「雑書倉庫」という下書き記事にまとめて保存している。現時点では15600字ある。かなりある。
そのため、ここでは現時点で書いてある話題のうち、今まで出してなかった全20話題約10000字を一気にご覧いただこうと思う。目次置いとくので、適当なとこで切り上げて、ゲームとかしてもらって結構です。
それではどうぞ。
1.そろばん
私はそろばんが上手い人の感覚がよくわからない。そろばんに関しては小学校の頃に謎に少しだけやった記憶があるが、どんな仕組みだったかということさえ完全に忘れてしまった。
しかし、そろばんが上手い人ときたら、目の前にそろばんがある時は目にも止まらない手捌きでそろばんの玉を弾いている。そしてそれで終わればいいのだが、なんと上手い人は目の前にそろばんがなくてもそろばんが使えるとか言う。私はその度にそんなわけないと思うのだが、多分本当にそうなんだろうな。すげー。
ていうか、そろばんが上手い人は何の能力が優れているのだろうか。やはり目の前にそろばんをAR的に浮き上がらせてそれを使うという想像力と、そこでした操作を脳に留めておくという記憶力なのだろうか。いずれにせよ私にはできない業である。
2.知らない森
自分の住んでるマンションの横にあった家が取り壊されていて、その奥に見たことない森が広がっていた。今まで生まれてからその日までそこにはその家がずっと建っていたため、そこに森が広がっているなんて知らなかった。しかし、よく見てみると、私が普段通る道から見える森(というか木の集合)を別のアングルから見ただけだった。それでも、なんだか今までアンロック出来なかった景色をアンロックできたみたいで嬉しかった。
3.サトシ
ポケモンのアニメの主人公、サトシが引退(という言い方をみんなしているので便乗)した。26年もサトシでやっていたらしい。ここまで歴史があると、もう固定枠だと誰もが思うはずだ。ドラえもんの主人公がのび太、ドラえもんであり、ワンピースの主人公がルフィであるのと同等に、ポケモンの主人公はサトシ。これが一般常識だった。
しかし、26年という時を経て、なんと主人公交代というえげつない判断を下した。この理由に関しては未だ誰も納得がいっていないはずだ。私も同じく納得いっていない。主人公交代が発表された回をリアルタイムで観ていたが、驚きのあまりその日はずっとそのことを考えていた。それくらい、26年という時間が染み付かせた主人公としてのイメージは堅い。
案の定、ネット上でも主人公交代を批判する声は絶えなかった。「まだ遅くないからやり直せ」とか、「交代する意味がわからない」とか、「ただの嫌がらせだ」とか。果たして、なぜポケモンのアニメはサトシを引退させるという道をわざわざ選んだのか。そっちの方が茨の道に決まっているというのに。
そしていよいよ新シリーズの放送が開始されている。私は、放送されるたびにネット上が批判の嵐になることを危惧していた。テレビの違法な切り抜きを載せて「ここ意味わからんかった」とか批判するんだろうな、と思っていた。しかし蓋を開けてみれば、「割といい」とか、「作画がいい」とか、「登場人物がイケメンだ」とか、称賛の声が多く見受けられた。これはもう、アニメ制作会社の勝利である。サトシの引退を発表した時は非難されたが、いざ放送すればその避難した者たちをクオリティで黙らせる。カッコ良すぎないか?
私たちはこれからサトシのいないポケモンを観なければならないが、それはマイナスなことではない。私たちはポケモンの挑戦を今この目で目撃しているのである。26年の歴史を乗り越えた先の世界を見せてくれているのである。そう捉えて、新しいポケモンを私も楽しく観ている。
ただ、唯一兄だけは「みるのが怖い」という情けない理由で未だにサトシ編の最終回を観ていない。本当にどういうつもりなのか。
4.重低音
キックドラムの音やベースの音を大音量で聴くと、なんだか内臓まで揺れるのを感じることがあり、その度に「生きてるな〜」と思う。
5.記憶
なぜかはっきりと覚えている光景というのは誰にでもあると思う。特に理由はないし、その前後のこのとも覚えていないけど、その特定の光景だけ覚えている、というようなこと。
私は、まだベビーカーで運搬されていた頃、兄の幼稚園のお迎えに連れて行かれたのだが、その帰り道に兄が帽子を用水路に落としてしまい、それを兄の友達の母親が咄嗟に用水路の柵を越えて、思い切り手を伸ばして兄の帽子を救出したという状況をなぜかはっきり覚えている。その前のことも、その後のことも全く覚えてないし、そもそもその時の年齢の時の記憶がこれくらいしかない。なんでなんだろう。
割と最近にもある。中2か中1のとき、たまたま1人で帰っていたら、とあるマンションのガレージの車止めにタバコを吸っているやや若めのお兄さんがいた。なんか怖そうだったのでとっとと通り過ぎようと思ったら、そのお兄さんが私に「こんにちは」と挨拶をしてきたのだ。私は驚いたが、ちゃんと「こんにちは」としっかり返した。ただこれだけである。この日にやった授業も、この後家に帰ってやったことも覚えていないが、このパーツだけ覚えている。
こうして考えると、記憶というのはこういう断片的なパーツで形成されるのではないだろうか。つまり、今こうして一生懸命生きていても、何十年後にはそのほとんどの部分は失われ、変なパーツだけが残ることになるのだ。こんなことを考えると悲しい気分になるが、今を精一杯生きることで、将来まで残る記憶のパーツを、少しでも多く残していきたいと思う。
6.メインストリート
あんまり知らない所へ車で出かけるとき、その途中で、明らかにその辺りのメインストリートだろうな、という場所を通る。メインストリートにある施設はだいたい決まっていて、
・洋服の青山
・メガネの三城
・ENEOS(ガソリンスタンド)
・ユニクロ
・知らない寝具屋
・スシローorくら寿司
・セブンイレブン
・エディオン
これらはほぼ全てのメインストリートに存在している。これらがある、というのをメインストリートの定義としてもいいくらいだ。
メインストリートという言葉にピンとこない人もいるだろうが、要するにいろんなお店が集まる、その地域の人の買い物の場となっている大通りだと思ってくれれば良い。そこには、特に「洋服の青山」がある。そして、メインストリート以外に「洋服の青山」はない。
すなわち、「洋服の青山」の店舗数と、メインストリートの個数は等しいことになる。
7.雨
「雨」という漢字を漢字辞典で引いたとき、意味が二つ書いてあり、一つはもちろんあの降ってくる雨のことを淡々と説明した文章が書かれていた。そして二つ目に書いてあったのは、なんと「友だち」という意味だった。これを見つけたのは中学生ぐらいの時だったからあんまり覚えてないし、もしかしたらそんな意味は載ってなかったのかもしれない。しかし、私はそれをみた時の衝撃を今でも忘れていないから、多分本当にそういう意味を持っているのだ。
雨という言葉は私の知る限り悲哀のメタファーとして広く文学に用いられているが、そんな言葉に「友だち」という意味があるとなると話は変わってくる。雨というマイナスイメージと、友だちというプラスイメージ。これらが雨という一つの言葉に内在しているとすると、随分とコスパのいい文字だ。たった1文字でそんな多様な意味を持てるなんて。力持ち。
しかし、なぜ雨に友だちという意味を見出したのだろうか。あんなに冷たくて、陰湿で、不快な雨のどこから友だちの要素を引き出せたのか。というかそもそも、友だちという意味が先に存在していたとしたらどうか。
「坊ちゃま、今日はひどい降り水ですね。」
「ああ、でも、なぜか見惚れてしまうんだ。」
「と、いいますと?」
「元は天の上で1つの水じゃった、と考えてみてくれ。そうすると、ここに降りよる降り水たちも、元はみんな1つじゃった、ゆうことじゃ」
「はあ、でも、坊ちゃんはそのどこに惚れておられるのです?」
「こうしてわしの袖を濡らす降り水の一つ一つが、なんじゃろうか、いわゆる「友」のように感じるのじゃ。分かるか?」
「つまり、元は一つだったゆえ、こうして離れ離れで降る降り水一粒一粒が何か友情、みたいなもんを持っとる、ゆうことでしょうか。」
「そうゆうことじゃ。そう考えると、降り水も嫌なもんとは感じにくい。」
「なんだかそう思うと、「降り水」ゆう名前もなんやもったいない名前な気がしますね。」
「雨、ゆうのはどうじゃろうか」
「雨、ですか?今は友、ゆう意味だけで使われとりますが、降り水を雨と言うことにするとゆうておられるんですか?」
「そうじゃ。雨、か。いい響きじゃのう。」
みたいなことがあったのかもしれないが、よく考えると雨は確か象形文字なのでこんな会話はありえない。せっかく考えたのにな。
8.ポケット
城崎を旅行したとき、ズボンの左のポケットに自分のスマホを入れて歩いていたのだが、ある時にポケットの底が破れ、自分のスマホが左足の足元から出てきたことがある。
9.初夢
少なくとも覚えている限りでは初夢に富士も、鷹も、茄子も出てきたことはない。というかほとんどの人がそうだと思う。その代わり、初夢に限ってかなり変な夢を見ることが多い。その中でも特にはっきり覚えているものを紹介したいと思う。ポイントは、これを初夢に見た、という事実である。
私は砂浜(それも綺麗な南の島みたいなところの砂浜)にいて、あるコンテストに参加していた。その内容が、脚立の足にキャスターをつけて、その上に乗って砂浜の一定区間を往復するレースというもの。どういう原動力で脚立を動かし、また往復させていたのかは不明だが、とにかく私も脚立に乗って海風に吹かれながら砂浜を疾走するというのが初夢だった。
夢はその日に得た記憶を脳が処理する過程で全く関係のない記憶が結びつくことで生まれる脳の作り話だという話を聞いたことがある。教えてほしい。私は年末にこの夢の構成要素となる記憶をどこでキャッチしたのか。南の島や脚立、キャスターに関する体験は年末に全くしてないのだが、いつ脳に組み込まれたのだろうか。教えてくれ。
10.ぼくらが旅に出る理由
小沢健二の曲「ぼくらが旅に出る理由」という曲がある。とてもいい曲なのでぜひ一度聴いてみてほしいのだが、この曲のイントロを聴くと、一瞬「あれ?間違えてカラオケバージョン再生しちゃってる?」と思う瞬間がある。もしかしたら自分だけかもしれないので、本当に一回聴いてみてほしい。こう感じるのが自分だけという可能性も、十分ありうる。
11.本物の悪
私がポケモンカードを始めたての頃、近くで知らない人とポケモンカードのバトルをするというイベントがあり、せっかくなので行ってみることにした。参加者は20人くらいで、5回くらい戦って何勝したかで順位がつくみたいな感じだった。
結果としては全敗だったが、そのことよりもよっぽど記憶に残っていることがある。なのでこのことを思い出しても悔しかったより面白かったがかなり上回るのだ。
2.3回戦くらいで出会った相手が、当時の私とおんなじか、それより小さい女の子だった。私は流石に勝てるだろうと思いその試合に臨んだのだが、その女の子が取り出したのはプリキュアのシールド(カードを保護するフィルムのようなもの)に覆われたデッキだった。その時点でかなり変だとは思った。なぜなら、普通はポケモンカードなんだからポケモンのデザインが施されたシールドをつけているはずのところをガッツリプリキュアでカバーしてきているからである。
このシールドを見た時点で、私はフェアリーデッキ確定演出だと思った。プリキュアのシールドをして、フェアリータイプのポケモンを使っていないはずがないじゃないか。そう思って対戦が開始しバトル場のカードが表になった。
悪タイプだった。フェアリーの対極である悪タイプのポケモンで埋め尽くされたデッキだった。その女の子のカラマネロEXにボコボコにされた。彼女は本物の悪である。
12.無賃旅行
実際に実行したことはないし、別にするつもりもないのだが、改札の外にさえ出なければ、電車ってどこまで行ってもタダだよなあ、とたまに考える。つまり、タダで琵琶湖とか、京の街並みなどを眺めることができる気がする。
しかしこの旅にはかなりの不自由さが伴う。電車や駅から見える景色が精一杯で、実際そこに行ったりすることはできない。しかも、別の電鉄に乗り換えることなく行ける範囲しか行くことができないのでそもそもそんなに遠くまでは行けないと思う。いや、分かんない。私は電車にそんなに詳しくないので、もしかしたらJRとかだったらかなり遠くまで行けたりするものなのかもしれない。誰か試してみて下さい。少なくとも私はそんなことはしたくない。
家にいたい。
13.感涙
感動して泣いたことはあるだろうか。ちなみに私はある。ニモを観てたら普通に感動した。この「感動して泣く」、すなわち感涙するということは誰しもあることだ、と思っていたのだが、中学生のときに一緒に帰っていた人たちに話してみたところ感涙したことがない、という人もかなりいることを知った。かなり標本が偏っているので信頼できるものではないが、とにかく感涙したことがない人なんていないと思い込んでいたためこの事実に衝撃を受けた。
そもそも、感動して泣く、というのは悲しさによる涙とはまた違う働きであるような気がする。一体どういうメカニズムで感動して涙を流すのか。実はこれがまだ不明らしい。私もさっき調べてかなり驚いた。人間の表面的な現象でもまだ仕組みが解明されてないことがあるという事実がすごい。ただ、現時点で仮説はあるらしい。
そもそも、喜びも悲しみもどちらも、心身に影響を及ぼす存在であり、それを総称して「ストレス」という。人間は古来から「ストレス」と向かい合い続けた結果、涙を流すことでそれを解消する、という術を手に入れたのである。こうして入手した術を現時点でも所持しているため、感動した時に涙が出る、という仮説だ。すなわち、感動して涙を流すのは、その時身体が感じている「ストレス」を和らげるためだ、ということになる。
この仮説に乗っかってみると、感涙したことがない、という人はもともと「ストレス」を感じにくい体質なのかもしれない。『永遠の0』を読もうが、ニモを観ようが、それを特に「ストレス」とは感じていないのか。いいなあ、と書こうとしたがよく考えたら全然羨ましくなかった。感涙したことがあるかないかという議論に優劣をつけるのはナンセンスである。
では最後に、そんな感涙したことがない人におすすめの激ストレス映画(いわゆるとっても感動する映画)を紹介しようと思う。それは、「映画ドラえもん のび太の新恐竜」という映画だ。この映画のストレスは凄まじく、あんまり感涙したことがないという友人が後に「これを観たらめちゃくちゃ泣けた」と言っていたほどのシロモノ。私ももちろん観たが、あれは危険だね。アマプラで配信されているので、最近涙を流していないという方、是非。
14.信頼関係
日本にはかなり人がいる。特に電車や繁華街ではそれを感じやすい。こういうたくさんの人がいる場に行った時よく思うのは、お互いが、お互いを信頼してるからこうして人とすれ違ったりできるんだなあ、ということ。どういうことかというと、物騒な話だが、すれ違いざまに全く知らない人を殴ったり、鋭利物で刺したりすることは、出来ないわけではない。つまり、人と人との間には常にこういう「誰かに害を及ぼす」可能性が潜んでいる。しかし私たちは、こういう可能性があることを認めた上で、互いに「そんなことはしないだろう」と赤の他人を信頼する。そうして今の社会ができているのではないか。
しかし、この信頼関係が崩れることも最近増えてきたように感じる。通りすがりに刃物で切りつけたとか、そういうニュースを最近かなり見るようになった。私たちはこういう可能性があることも認知しなくてはならない。ましてや赤の他人同士の信頼関係、そりゃ崩れないほうがおかしい。
ただ、そんな可能性を恐れていては外出さえすることができない。今誰かに襲われたら、などとずっと考えながら街中を歩くなんて、そんな不自由な被害妄想もないだろう。今の社会が存在できているのは、こうした「誰かに害を及ぼす」という誰しも使用可能な能力を使わないようにし、またそれと同様に他の人も能力を使わないだろう、という信頼が折り重なってできた強固な、全く知らない人たちとの関係性があるからなのである。
15.採点ミス
テストが返されると、採点ミスがないか見直す時間があり、そこは得点アップのチャンスであるため血眼になって先生の採点のミスを探すが大抵はない。そしてたまにミスを見つけて、2、3点上がったりする。そんなイベント。
しかし、稀に間違っているのに丸がされていることがある。ここで、人間としての振る舞いが試されるのだ。果たしてこれを持って行って点を下げる代わりに先生からの信頼を獲得するか、それとも秘密にして自分の点数をキープするか、この究極の2択に立たされる。実際に自分も中学生の時2回この経験をした。結果から言うと、最初は言いにいって、2回目は隠しておいた。
なぜかというと、最初に間違ってるところに丸がついているのを見つけた時、「これを自ら摘発すれば少なからず先生からの評価も上がり、みんなからも「あいつすげえな」と思われるだろう」と思い言いにいって、席に戻り、しばらくしてからこの行為が偽善であるような気がしたからだ。ここにおける正直さに中身はなく、それは自己の評価をあげたいという卑しい感情で満たされている。そして自ら点を下げて自己満足する。そんな自己完結の物語が展開されているのだ。
そういう思いに駆られてから、私は間違って丸されているところがあっても告発しなくなった。それが結局のところ1番の最善策なのであり、自ら点を下げるなんてことはしない。それも自分の運だと思って、一得点源としている。
16.静電気
私は夏より冬の方が700000000(7億)倍好きなのだが、そんな冬にも脅威があって、それが静電気だ。私自身かなり乾燥肌なので冬場の静電気をどうするか、という点は常に至上命題である。しかし、よく考えたら静電気が怖いのは、痛さ由来だけではない気がする。静電気の痛さって、他の痛みに比べるとまだ小さい方だ。じゃあなんでこんなに静電気は怖いのか。
それは、驚きがあるからだと思う。一見痛みを与えてくる感じがしない金属製の手すりや車のドアから、「電気」という普段食らうことのない未知の攻撃が放たれるのは、痛いし、怖い。こけて痛いとかはわかるけど、電気が流れて痛いって、そんな急に科学されても困る。
そんな痛みと恐怖を与えてくる静電気だが、聞くところによると静電気が来そうなものに触る前に床とか壁とか、電気を通しにくいものに触ると防げるらしい。私はこれを聞いてからかなり静電気被害は減ったが、それでもたまに不意打ちの電流が流れることは避けられない。
17.息苦しさ
国語のテストなどで、最近の傾向に則って生徒同士の会話文から出題する問題が多く見受けられるようになった。ある文章を読んで、その意見を生徒同士で交換し、その会話の一部がカッコ抜きされてて当てはまるものを選ぶ、といった形。最近はかなりスタンダードになってきた。しかし、その会話文が、あまりにも「書き言葉」すぎるときがあってその度に気持ち悪くなる。国語の専門家が作っているテストだからそりゃあ言葉の綾にも厳しくなるだろうが、会話文を書くところは忠実に「話し言葉」であってほしい。
例えば、「〜のだと思いました」とか。「のだと」て。「〜と思いました」でいいのに、無駄に国語のルールに拘泥した結果このような気持ち悪さが残ってしまっているのがわかっていただけるだろうか。こんな会話を交わすクラスなんて息苦しくて仕方がないと思う。誰かのことをふざけて揶揄したりしたら「〇〇君!ダメですよ!」とクラスメイトに言われそうだ。
18.バタフライ
小学校を卒業するあたりまで水泳をずっと習っていたので、今もある程度泳ぐことはできる。クロールとか、平泳ぎとか、背泳ぎとかは一年くらいやってなくても何となく感覚で泳ぐことができて、自転車に乗れるのと同じ感覚なんだと思われる。しかし、バタフライ、ヤツは違う。今やっても、絶対できない。
バタフライはこの基本四泳法の中でも異彩を放った存在である。まず何がおかしいって、足。ドルフィンキックというやつで、足全体を水中でクネクネしながら推進力を生んで前に進むというかなりトリッキーな技だ。足がおかしいのは平泳ぎもなんだけど、平泳ぎの足は変だが別にしんどくはない。しかし、バタフライは足クネクネだけでかなり体力を削られる。それに加えてあの手。皆さんは普段生きてて腕を肩からフル回転させることはあるだろうか。ない。あんな動きを久々にしたら脱臼は免れないだろう。恐ろしい全身運動である。
第一、もし船が沈没して、まずバタフライで泳ぐ人なんていない。クロールか平泳ぎ。多分150人に1人くらい背泳ぎ。しかし、バタフライはどれだけ分母を広げてもゼロだと思う。そう考えると、バタフライはただ、「もっと泳ぎ方ってないのかな?」という模索の結果のシロモノで、別に必要として生まれた泳法ではないんじゃないか。
19.おじさん
たまにヤバそうなおじさんに会う。街中とか、電車の中とか、その状況はさまざまである。しかし、そんなどこにでもスポーンするおじさんだが、唯一そのヤバさが和らぐ場所があって、それが電車だ。
なぜなら、電車の中にいるということはしっかりその前にお金を払うという責任行為が伴っているからであり、“お金を払って”ヤバいことをしてるおじさんは大してヤバくはないからだ。
20.分からない
最近の風潮ですごく嫌なことがある。それは、「分からない」ことを悪いこととする風潮だ。別にピンと来ない人はそれでいい。そういう現場をあんまり見てないのだろう。しかし、インターネットではそのような風潮が頻繁に見られるのだ。
実例をとって考えると、以前の世にも奇妙な物語で「虹」という主人公が一言も話さない不思議な話があって、確かに難解だったが、あれってどういう意味だったのかな、結局このあとどうなったのかな、などいろいろ考えることができてとても楽しい話だった。
これはさぞ評判もいいだろうと思ってTwitterを覗くと、「あの話何?意味わからんしつまらん」などという酷評がかなり見受けられた。はっきり言わせてくれ。お前がしてるそういうコメントの方が意味わからんくてつまらんぞ。気づけ。
とにかく最近は「分かりやすさ」を求めすぎている雰囲気がある。分かりやすければ分かりやすいほどいい、分かりにくいものはダメだ、という分類がかなり目立つし、事実ネット上ではそのような意見が散見される。
しかし、「分からない」ものには、それを自分なりに組み立てることができるという自由性があるように感じる。自分で創造を補いながら、自分の解釈としての物語を完成させていくことこそが醍醐味で、それはまるで自分まで作品の一部となっているかのようである。
最近の風潮は、この自分なりにその作品を味わうという時間を完全に排除しようとしている。いわゆるタイパ(なにこれ?なんでも略したらいいと思うなよ)重視ということなのか、手っ取り早く分かりやすいものが今求められているのだ。最近の方々は、そんなに時間がないんですか?次から次に見なきゃいけない、やらなきゃいけないものが襲ってくるんですか?それはあなたが物事を取捨選択できてないだけなんじゃないですか?
とにかく、自分で組み立てる時間、というのを省かないでほしい。「君たちはどう生きるか」という私が好きな映画だってそうだった。分からないという理由で酷評され、「分からない=面白くない」みたいな超短絡回路で処理されてしまってるケースをかなり多く見て、とても悲しくなった。ここまで文が荒くなってるのは、本当にこの風潮に怒っているからである。
別にさ、参考書とかならわかるよ?分かりにくい参考書はそりゃ使わなくていい。それは粗悪品だ。でも、映画とか、小説とかって、参考書じゃないでしょ?なんで「分かる」「分からない」の二元論でまとめちゃうのかな。それってすごくもったいないことじゃない?
結論として、私は皆さんに「分からない」という理由で物事を切り捨ててほしくない。それについて自分自身で、あるいは人の意見なども参考にしながら自分なりの形にしていく、その過程を楽しんでほしいのだ。
「分からない」を排除した世界は、きっと一辺倒なつまらない世界になっているだろう。「分からない」ということは、それ単体でかなりの刺激であり、私たちの生活をより深みのあるものにしてくれていると信じている。