平の日記②「中学校の思い出」
Y中学
S小学校を卒業する僕は、選択を迫られた。
校区的にはK中学かY中学のどちらでも行ける位置に住んでいたのだ。K中はあまり不良がいないと聞くが、Y中は地元でも治安の安定していない中学として有名だった。ただ、仲良かったほとんどの生徒はY中学に行ったため、自然と僕もY中へ進学した。
入学してすぐに僕はこの中学の恐ろしさを思い知ることになる。
まず、小学校の時とは比較にならないくらい見た目のいかつい先輩がいる。
どう考えたって校則違反な学ラン、中には赤シャツ。眉毛はない。
そしてこの中学には変わった風習があったのだ。
レイとガーリー
下級生が、上級生の前を通過するとき、もしくは上級生の姿を視認した時。
レイと呼ばれる「ある動き」をしなくてはならない。
両手を後ろ手に組み。顎を突き出し、ガクガクと頭部を小刻みに揺らすのだ。まるでニワトリのような滑稽な動きだが、当時のY中の下級生にとって、上級生(主にヤンキー)は天竜人である。基本的には下級生はキメラアントくらい忠誠心があったが、極稀にレイを怠ったものが出たとする。
すると彼は「ガーリー」に処されるのだ。
「ガーリー」とは、焼き入れ、私刑、ボコる。さまざまな言い方はあるだろうが、何かしらの良くない刑に処される。実際にガーリーされたであろう者が廊下に転がっているのを見たことがある。「あぁ、早く大人になりたい」と心から願った。大人になった今、書いていて「ほんとにあんな風習あったかな?」と自身の記憶を疑うほど変な風習だが、これを読む皆さんの周囲に沖縄市Y中学校出身のアラサーが居ればぜひ「レイ」を目の前でしてほしい。責任は持ちません。
剣道部のT先生
当時、僕は死ぬほど運動が嫌いだった。今でも長距離をするか爪をはぐかと聞かれたら数秒悩んで爪を剥ぐくらいには運動が嫌いだ。僕にセリヌンティウスは救えない。見た目はハンター試験の走るときに脱落したデブそっくりだった。あいつを見るたびに当時の俺を思い出してキュっとなる。
そんな救えないデブの僕がなんと剣道部に入部したのだ。
理由は簡単で「なんか楽そう」だったのだ。実際ガチで練習していた一部の生徒を除き、僕と友人のKはずっと飛天御剣流の新技の開発で青春を捧げたし試合では一度も勝てなかった。
そんな剣道部の顧問のT先生は、眉毛の濃いちょっと笑顔の個性的な青年だった。彼は極まれにアイスを奢ってくれるのだが、「80円までな!」などと毎回相当制限をかけてきた。
筋金入りのデブだった僕は「なんだよ150円のアイスも買えねぇのか!良い車乗ってるくせに!」と思っていた。しかしある日先生の車に乗せてもらったことがあった。外装こそいい車だったが、なんと助手席が外されて、段ボールが敷かれていたのだ。今思えばあれは改造中かなんかの過程だったかもしれないが当時の僕は「こんなに貧乏なのに‥俺みたいな練習もしないデブにアイスを買ってくれたのか‥なんて優しいんだT先生‥」と精神的大成長を遂げることになった。
翌日部活で「校門出て●●の歩道橋まで長距離走な!帰ってきたらアイスおごってやる!」
と叫んだT先生はまぶしく見えた。僕は笑顔で走り出し、校門を抜けてコンビニに入って時間をつぶして戻ってきてアイスを奢ってもらった。ごめんT先生。俺、まだ走れません。
弟が入学
中学3年に上がると同時に、弟が入学してきた。
正直小学生のころで身長を抜かれた僕の兄としてのプライドはズタズタである。しかも勉強でも負けていた。正直勝っていたのは体重だけだったが、不思議と仲は良かった。
「兄より優れた弟など存在しねぇ!」とジャギ化する事もたまにあったものの、修羅の中学時代を無事過ごした僕は、いよいよ卒業式を迎えることになる。
警察が見守る卒業式
Y中学は古からの伝統で卒業生が(たしかOBも含めて)卒業式で大量のメリケン粉をぶっかけ合うという奇習があった。
本当にこれは何が面白いのか未だに理解に苦しむのだが、スペインのラ・トマティーナ(トマト祭)では100トンのトマトをぶつけ合うらしいが、メリケン粉をぶつけ合う中学生たちの迷惑度は渋谷のハロウィンどころの騒ぎではない。
麻薬と同等の扱い
当時、Y中学の近隣の商店では「Y中学生にメリケン粉は販売しません」とお触れが出ていたらしく、事実卒業式が近づくと買えなくなったそうだ。
なぜ僕が他人事かというと、その卒業式で先輩やOBが投げるメリケンを買うのはヤンキーたちの責務だと聞いたことがある。これは噂話だが、ヤンキーたちがせっせと集めた大量のメリケン粉を地中に埋めていたらしく、卒業式直前で先生に見つかり、掘り返され押収されて、見つかった子は「ガーリー」されたとかされてないとか‥
そんなこんなで無事、修羅の中学時代を乗り切った僕は激動のK高校に進学することになる‥(続く)