夏休みの宿題がそこにいた

世間は夏休みムード一色である。
私は学生ではないのでもう関係ないのだが、それでも尚、「夏休み」には愛憎入り混じった感情がある。

夏休みの間は学校に行かなくていい上、小学校の頃にはプールが開放されていた。家の浴槽とは違う、冷たくて広い水の中を揺蕩うのは至上の歓びだった。

しかし家に帰ると、ランドセルの中からこちらを睨めつける大量の紙束があった。夏休みの宿題である。

奴らは一学期が終わるとさも当然のように我々の目の前に現れ、それ以降放りだしてそのままのランドセルから言いしれぬ圧をかけてくる。そして8月最終週になって、奴らは意気揚々と飛び出して机上にて私を苦しめるのだ。

現在は宿題と無縁の時間を過ごしているため、このような恨み言をつぶやいていてもしょうがないのだが、先日読んださくらももこさんのエッセイ集「あのころ」を読んで、夏休みに対する暗い気持ちがふつふつと沸いてきたためである。

夏休みに宿題があるというのは、子供に夏休みを休むなと言っているようなものだ。つまり休むのはあくまでも学校であり、子供が休むのではない。スーパーがお休みでも主婦が休みでないのと似ている。

さくらももこ「あのころ」(集英社文庫、24ページ)

著者のさくらさんもやはり、小学生の頃は夏休みの宿題に苦悩していたようだったという旨の記述もあった。さくらさんが小学生だった1970年代から、私が過ごした2000年代の宿題事情というものは、あまり変わっていないらしい。

夏休みとは暑い夏に子供達を無理をさせないための期間だと聞いたことがある。
確かに、今日の東京も30度を越える酷暑だった。
夏休みの宿題は、今もどこかのランドセルの中で、
子供達をどう懲らしめてやろうか手を拱いているのだろうか。それとも、一緒にプールなどで遊びたくてうずうずしているのだろうか。
なんにせよ後回しというのは良くないことだと思いつつ、YouTubeを開いちゃうんだよなあ。


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