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二番目
私の一番は歌手になることだった。ずっとこだわっていた。
どうしても夢を諦めきれず、結婚して、すぐに音大の短大声楽科を受験するため、教授の奥様、教授ではないけれど、実力者だった人に声楽を習った。4年制は、子どもの頃から訓練を受けていない為とても無理だった。
レッスン料は、1時間四千円だった。所帯を持って間もない時だったので、お金を捻出するのは大変だった。
ところが、受験の時、私はピアノで失敗した。
ピアノは高校生の時が習い始めだったので、発表会の経験がなく、人前で弾くことがなかったために、非常に上がってしまった。
だが審査員の前で上がるだけでなく、すでに、順番を待っていた時から、もう結果は決まっていた。
私はカイロを持って来ていなかった。周りの受験生は皆カイロを持って、手を温めていた。二月の寒い時期のことだった。
ピアノは月謝を安くするために、音大の学生さんに習っていた。学生さんだから、受験の心得を確認しないで、おそらく自分では当たり前のことだから、わざわざ伝えなかったのだろう。
だが私は皆のカイロを見て、指はすでに固まってしまった。いや、心が固まったかな。
なので、審査員の前でピアノを弾くときは、指が動かなかった。何度弾き直しても駄目だった。
終わって、泣きながら、声楽の先生の自宅に駆け寄り、駄目だったことを告げた。
青ざめた私を見て、先生も困っただろう。言葉をなくしていた。
後に、声楽は合格するレベルだったと教えてくれた。
教授は声楽の審査員だった。
だが落ちたらゼロに帰する。
それがずっと尾を引き、今の仕事についてからも、私の一番は歌手になること、に執着して、仕事を楽しめなかった。そして、今の仕事は生活の為にしてるんだ、と自分に言い聞かせ、子どもたちを育てていかないと、と思って続けてきた。
ところが5年前、息が苦しくなり、その時は肺炎でもなく、原因がわからなくて、自律神経失調症と診断された。
初めての病気?で何がなんだか分からなかった。なかなかその事実を受け入れることができなかった。
娘が、心を軽くしないと、と言って、ピアノや、大量の本を処分しようと言い出した。
そして、本箱も縮小し、ピアノも身を切られるようだったが息苦しくて歌えないので、処分した。
そのあたりから、徐々に執着が取れていったように思う。
そして、noteに出会って、何気なく短歌を書き出したことによって、短歌も、歌なんだなあ、とようやく思えるようになった。今から思えば、なぜ歌手になりたかったのか、それは今の思いと通じる。
日本語の美しさに感動して、そんな歌を歌いたかったのだ。童謡など昔の歌を。だからNHKの歌のおねえさんに憧れた。
受験の時もなぜイタリア歌曲なんだ?と疑問に思ったことも頷ける。
この思いは歌手にならなくても叶えられることだった。
そして、今まで培ってきた字と、美しい言葉を短歌で表せて幸せだと思えるようになった。
何かを捨てて何かを得るとはこういう事かもしれない。ずっと昔に、あきらめるとは、明らかにすることだと聞いたことがある。noterさんのアキタロウさんも書いていましたね。
そして、学んできたことは決して無駄にならない。
文字を書くにも息継ぎやリズムがいるのだ。音楽と一緒なのだ。歌をうたうように字を書くことが楽しい。
そして、何になりたいかではなく、どう生きたいか、ということを恥ずかしながらようやく気付いたのである。
字を書くのは、私にとって一番ではなく、二番だとずっと思っていたが、逆に二番だからこそ、肩に力が入らなくていいのかもしれない。そして美しい言葉を発して、自分も含め、日本の人達が元気になることを願ってやまない。言葉はそれ位、力があると思っている。