他人は「貴方自身」だ。
「人はいつから他人で、いつから他人ではなくなるのだろう?」そんな問いが示されていた。私見を述べていこう。
他人とは
「他人」とは何だろう。何も考えずに言えば「私」ではない人だろう。実際、漢検漢字辞典にも「自分以外の人。」と記されている。それはそうだ。
この質問は「左はどっち?」と聞いているようなものである。答えは簡単、「右の逆側」だ。もう少し丁寧な解答をすれば、「国語の教科書の偶数ページ側(ただし表紙の裏を1ページ目とする)」とでも言ったところか。
さて、他人の説明をする際に「私以外の人」とは何とも不真面目な答え方であると思われるかもしれないが、これは決してふざけている訳ではなく実際にそうなのだ。
貴方自身
想像して欲しい。今貴方の目の前にいる人の心は読めるだろうか。近くに居る人でもいい。とにかくその人の今の心情を想像してみて欲しい。恐らく普通の人であれば分からないはずだ。
勿論、想像することはできる。しかし、「分かる」ことは心が読める人でない限りはない。仮に当たったとしてもそれは偶然、あるいはその対象の仕草や振る舞いからその人の心情の傾向を掴んだ結果でしかなく、これもまた想像による域を出たことにはならない。要するに個人の想像だけで相手の心情を一言一句違うことなく、心の隅々まで一寸も異なることなく把握することは不可能である、ということだ。
そして、これが何より「他人」であるということを示している。
至極当然のことではあるのだが、実は私も含め私たちは充分にこのことを理解出来ていない。
これを読んでいる貴方は友達はいるだろうか。いない人は兄弟でも養育者でも飼い猫でも何でも良いから思い浮かべて欲しい。貴方はその人あるいは猫のことをどれだけ知っているだろうか。
「うちの猫はメシの時だけニャーニャーうるさいんだよな」「私の親は嘘をつくとき鼻を掻くクセがあったな」
色々「知っている」ことが出てきた人もいると思う。おめでとう。色々思い浮かべることの出来た人にとってその対象はもはや「他人」ではない。
「貴方自身」である。
厳密に言えば「貴方によって上手く紐付けが行われた結果できあがった「架空の人物」」だ。
「どこで略しとんねん」そんな声が聞こえそうだ。「貴方自身」と略した理由は後述する。なお『女性自身』のオマージュではない。
物語化による虚像の形成
先ほど貴方には身近な人や猫の心情について想像してもらった。そしてそれに対して私は「上手く紐付けが行われた結果」と述べた。これは私たちが良く行う「ストーリー化」を意味する。つまり「AがあったからBが生じた」のように綺麗な因果関係を作ってしまっているのである。これをより深く分析している心理学者のダニエル・カーネマンの著書の一部を引用したい。
この引用文を読んだ上で猫のくだりを思い出して欲しい。
「うちの猫はメシの時だけニャーニャーうるさいんだよな」
果たして本当にそうであろうか。猫は餌の時以外にも鳴いてはいるだろう。ただいつもよりもうるさく感じた時に「餌が欲しいのか」と「貴方」が思い、行動に移った。そして猫が出された餌を食べる。だが、本当は貴方にかまって欲しかったのかも知れないし、トイレを綺麗にして欲しかったのかもしれない。いずれにせよ貴方は猫の鳴き声が大きいタイミングを「餌」と紐付けたのである。
相手が人なら言語を発することが出来るからまだしも、猫に関してはまさに手持ちが少ないので、その限られた情報の中から相手の心情を想像しなければならない。故に必然的に大きい鳴き声=餌の物語ができあがってしまう。
しかし、それはあくまで貴方自身が作り上げた虚像であって、その人あるいは猫自身ではない。
つまり貴方は自身が作り上げた「架空の人物(あるいは猫)」とコミュニケーションをとろうとしてるに過ぎず、言ってしまえば鏡に映った自分と会話を試みているようなものだ。そしてこの「架空の人物」は貴方自身の思考や言葉、偏見で作り上げた物語化された存在であり、それは最早貴方によって作られた「貴方自身」なのだ。
これは相手を「他人」つまり「私以外の人」と話しているとは見なせない。ここで言う「他人」=「私以外の人」は「色眼鏡で見ていない対象」を指す。所謂「赤の他人」レベルの人がこれに該当する。
だが、その赤の他人を視界に入れた瞬間貴方はきっと「あの人可愛いな」「あの人運動選手っぽい」などと適当に印象を抱くだろう。一瞬にして色眼鏡の生成が始まる。まあ関わることはないので構わないが。
そして交流を深め、その人を知るうちにどんどん物語化が進んでいく。
「あの人がマッチョなのは水泳をやっていたからだ。」「ゲーム好きだから眼鏡を掛けるほど視力が落ちたのか。」このような簡易的な物語化が侵攻していく。実際は水泳をしただけではマッチョにはならず、マッチョなのは筋トレをだけでなく正しい食生活を心がけてもいるからだし、視力が落ちたのはそもそも遺伝の可能性だって充分ある。
交流を深め情報を増やしていったとしても、それを体系的にまとめ俯瞰することは困難を極める、というかそもそもやらない。もはやそれは名探偵かストーカーのどちらかだ。
だが、全体的に見ることがないとなると結局自分のなかで断片的に残っている場面を頼りにして物語を形成していくしかなくなる。こうして「貴方から見た相手の人格が形成」される。
言葉は福袋
貴方は相手の言葉を文字通り受け取れているだろうか。否、出来ていないし不可能だ。
なぜなら、一言一句その言葉に含まれるニュアンスを完璧に共有し会話を続けることなどできないからだ。だからある程度の会話はできるが、実際はお互い心の中で補完し、妥協、解釈をしながら理解しようとし、返答している。
言葉は中身の分からない福袋のようなものだ。2人で同じ値段の福袋を買っても中身が完璧に同じなことはない。何かしらが異なる。
福袋を空けてAさんが「赤い服が入っている」と言ったとする。それに対してBさんは「ほ、本当だね。可愛い」と言う。しかし、Bさんの福袋の中には赤と言うには明るすぎるピンク色の服が入っていた。しかし、BさんはAさんがピンクのことを赤と表現したと思い込み返事を返した。
一応言っておくがアンジャッシュのネタの話ではない。言葉の話だ。
そしてこの文を読んだ貴方とこの文を書いた私とでも想像する赤とピンクの色味はそれぞれ異なっているだろう。因みに私は深紅(赤)と椿の色(ピンク)を思い浮かべた。
このように言葉が発した当人にとってどのような意味、ニュアンスを含んでいるかなんて心を直接覗かない限りできっこない。仮に言葉を発した本人に真意を聞いても無駄である。その口から発せられるのもまた「言葉」を媒介とした真意であるからだ。耳に届くのは真意そのものではなく、真意の紛い物だ。
なぜなら貴方自身の言葉で相手の真意を解釈してしまう、つまり貴方の言語フィルターを通して理解してしまうので必ず齟齬が生じてしまうからだ。
加えて貴方は相手がどのような心情のもと言葉を発しているか非言語要素からも汲み取る。非言語要素とはジェスチャーなどの言語を媒体としないコミュニケーション手段のことを指す。
相手のことをよく知る貴方は、相手が特定の非言語要素を用いながら話している時はこのような心理状態であるとそれを前提としながら話を聞き、時に返答する。
だが、何度も言うがこれらが「他人」を「貴方自身」たらしめる行為なのである。
何とも言語化が難しくもしかするとここまで1ミリも伝わっていないかもしれないのでここで一旦絵に描いて整理してみよう。
大体こんな感じの話をしていた(所々省略しているが)。
要するに
・他人は往々にして貴方によって作り上げられた架空の人物
・相手が発した言葉にも貴方の偏見、解釈の違いによって不純物が混じる
・もはや自分の言葉が自分の耳に入ってくるようなもの
→ある意味自問自答になっている
結論
「他人」とは認識すらしていない人間のこと、接触をしたら貴方の色眼鏡によってその人は「架空の人物」(=貴方自身)になる。
そして交流を深めるほど相手の情報が増え、「相手はこういう人間だ」と貴方なりのイメージが凝り固まっていく。
相手の言葉を貴方なりに解釈することは相手の言葉をそのまま理解することではなく、貴方の言葉にしてしまっている。そしてその「貴方の言葉」に対して貴方は思考、解答をする。その意味での自問自答。
尚「架空の人物」の新しい側面を見出したときは「他人」としてのその人を垣間見たことになる。しかし、時が経てばその側面も架空の一部になる。なぜなら貴方にとって既知の情報となるから。イメージとしては色眼鏡の色味がよりカラフルになったと思えばいい。
「人はいつから他人で、いつから他人ではなくなるのだろう?」
これに対する一旦の解はさきにも述べたが「認識すらしていない間は他人、認識をしたら架空化が始まり、親交を深めるとともに「貴方」に近づいていく」だ。
この話はまだ広げることはできるが言語化に疲れたのでここで終わり。気が向いたら更新するかも(多分しない)。
とにかく私たちは自分が思っている以上に他人を他人として見られていないよ、っていう話でした。異論は認める。
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