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「解釈」のすすめ

世間一般人に比べて私は漢字の学習に力を入れている。最近は漢字そのものの成り立ちや植物の語源について学習をしている。

だが私はこのようなことを学ぶ際に恐怖心を抱いていた。なぜなら、学習に用いている本に書いてあることが必ずしも正しいことである訳ではないと改めて認識させられたからだ。

その本がいくら著名な人が書いている学術書だとしても、時間が経つにつれて新しいことが判明し、書いてあったことが間違いであったということがざらにある。

例えば日本史の教科書も気づいたら改訂されており、これまで常識だと思っていたことが覆っていることもある。

また「幸」の字が元々は手かせ(手錠)を表す字であることは有名で私もまたそれを信じて疑わなかった。しかし、この定説にはある程度反対の意見もあり、上の記事は反対意見が記されているので時間があれば覗いてみて欲しい(私は読解力が追いつかずよく分かっていない)。

そして以前私は学術書から得た知識を友達との会話内で用いたことがある(マウント行為ではない)。しかし、この学術書を書いたのは「幸」の字が手かせを意味するの述べていた白川静という人である。

つまり、この本には他の漢字に関しても実際とは異なる情報が記されている可能性があるということになる。そして実際この本は眉唾な考えも用いられていることを知った。

それ以来学習をすることに対して怖くなってしまった。自分が間違った知識を身につけるだけならともかく、それを友達にも教えることになったら私はただの嘘つきになってしまう。

そう思ってから少しの間本を読むことを忌避するようになった。

ただ、友達が辞書を教えてくれたりして私に対して共感を示そうとしてくれた。それもありすぐに漢字の学習に戻ることが出来た。1人の考えに固執するのではなく、いろいろな人の漢字に対する見解を知ろうと思えるようになったのだ。

解釈のすすめ

以上のことから正しい情報を身につけることの難しさを多少なりとも分かっていただけたと思う。

尚私は今でも白川の本も読んでいるし、他の著者が書いた本も読んでいる。

ただ以前とは異なる発想で読んでいる。

それは本に書いてあることは「知識ではなく解釈(仮説)である」という発想だ。つまり「これはこの人個人の意見であり、私はそれを読んでいるだけだ」というスタンスである。解釈は一般的な意味では「説明する」「意味を解き明かす」といった意味で用いられているが、ここでは「現段階における考え」として「解釈」を用いる。

一方で「知識」という言葉にはどうにも「まちがったことではない」という意識が内包されているように思われる。尚ここで言う「知識」とは「世間に知られる情報や考え」を意味する。つまり世に普遍的にある考え方、常識にも近い言葉であると考えている。

そのため私たちは「知識」として一度得た情報に対して疑問を抱くことはあまり無いように思われる。なぜなら本をはじめとした活字や言葉を用いて書かれていることは「正しい」ものと捕えるバイアスがあるからだ。

考えてもみて欲しい。わざわざ本に嘘を書いて出版するだろうか?嘘を書いて金を取ることが許されるだろうか?こう考えた時に(実際にはあるだろうが)どうにも本に書いてあることに対して猜疑心を抱くことは難しいように思われる。

実際私が「幸」という漢字が手かせの意味ではないと知ったのも偶々Twitterでそういうツイートを見たからであり、これがなければ白川の説に対して疑念を抱くこともなかっただろう。とはいえ白川自身意図的に嘘をついたわけではない。どちらかと言えば白川自身も被害者であり、結果的に誤った情報を広めてしまったのだ。

漢字の解釈に関してはそもそも何千年も前の人間が書いたよく分からん記号をいくつも読み解き、中には誤用や誤植といったトラップを躱し、あるいは引っかかりながら研究を進めるものである。そのため正しい語源を見つけることの難しいさは想像に難くない。

それにこの手の学問は新しい掘り出し物が出たらすぐに定説が覆る。そのため新たに書物が見つかったら本当は「幸」は手かせの意味であった、となるかもしれない。

このように考えると知識というのは自分たちが思っている以上に地盤のゆるい情報であるということになる。

だが世の中に溢れる知識はまるで自分は揺るがないものであるというツラをしながら放浪している。中には尾ひれをつけて泳ぎだしているものもいる。そのくせ捕えられてもその尾ひれを外さないことがしばしばある。

それではこの胡散臭い奴らをどう受け止めれば良いのか。それが知識ではなく「解釈」として受け止めることである。

「解釈」として受け止めることは学びの輪を拡張する。

先に述べたように「知識」は世間に受け入れられている情報である。そのためその情報が本当に正しいのか違和感を抱くことは難しい。そのため私たちは往々にして間違った「知識」を身につけている。

こんな話を聞いたことがあると思う。「アイヌ語には雪を表す言葉が何十種類も存在する」。この話はかなり有名な話で人によっては何百種類もあると耳にしたこともあるかも知れない。しかし実際には残念ながらそんなには存在しない。あっても10数種類程度らしい。

それではなぜこの「知識」はここまで巨大な尾ひれをつけておきながら、誰にもハリボテであることを悟られなかったのか。ハーバード大学教授スティーブン・ピンカーはこう説明する。

プラムは(省略)原因を推測して、「雪をあらわす単語があきれるほどたくさんあるという説は、鼻をすり合わせて挨拶をするとか、旅人に妻を一夜貸すとか(省略)数々の奇行イメージにぴったりだった」

『言語を生みだす本能(上)』

こうした背景もありイヌイットの雪に関する「知識」は長い間漂い続けた。そしてこのような類の「知識」はまだまだあるだろう。そうなるとどうだろう。あなたは自分自身の知識にまだ自信を持ち続けられるだろうか。

さすがに自分の知識の1つや2つあるいはそれ以上胡散臭い「知識」が紛れ込んでいると疑わざるを得ないのではないだろうか。

だがこれは良い兆候だ。なぜなら盲目に1つの「知識」に固執することはただの愚者であるからだ。私たちは自分の「知識」を疑わなければならない。しかし、このような思考で居続けると自分の知識に自信が持てなくなるだけでなく、新たに「知識」を吸収することさえ怖くなってしまう。

まるでかつての私のように。

それを回避するための「解釈」という意識だ。つまり私たちが身につけている情報は「現段階はそう考えられている」という一時的且つ流動的なものであるという意識を持つことである。この意識でいれば「解釈」は「その内アップデートされる」ということ前提の情報なので、自分の中に取り入れることに対する恐怖心を取り除く事が出来る。

こうすれば私たちは「知識」という真偽も定かではない檻に囚われることなく自由に情報を身につけることができる。

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