32歳の私が始めた終活①人編――「いる人リスト」と「いらない人リスト」――
3つの終活で「身軽」に生きる
「身軽でいたい」と思うようになったのは、おそらく20歳ぐらいのとき。きっかけはさておき、その後10年を超える歳月を経た今、その身軽さ願望の延長として、わたしは人生の終わりを見据えるようになった。
32歳の私が始めた終活項目は、
人
モノ
お金
すぐさま死ぬというわけではないから、これら全てを一気に捨て去ることはできないが、とはいえ、絶えず死に向かいゆく自分の今を生きるためにこそ、少しづつそれらを手放して「身軽」でいたい。
終活①人編
これまで、人にまつわる義理や恩やしがらみが、モノやお金というかたちで、わたしに重みを与えてきた。
だから、何より先に、人間関係を整理したかった。自分が一緒にいて心地よい人とだけ時を過ごすことにして、コネや恩義や人脈に一喜一憂する日々なんて、もう一生したくなかった。
リスト分け
いる人リスト
家族(父、母、兄)
大学の旧友Bちゃん
恋人Y氏
幼馴染N+S+O×2
同士Tさん
お友達Aちゃん
お友達Oさん
お友達Wさん
いらない人リスト
大学時代同じグループだった友人
前職の上司、先輩、同期
恩師
親戚
なんて明快、かつ、薄情なリストだろうと思うけれど、「その他の友人」「仕事関係の人」「知人」という便利なカテゴリーは、あえて作らない。今、この瞬間の自分の正直な気持ちと向き合い、必要不要の全てを明かにすることで、気持ちがすっきりする。
「いらない人リスト」の人でも、また一緒にいたいと思ったならば、「いる人リスト」に加えればいい。
ルール決め
「いる人リスト」の人であっても、ずぶずぶの関係は嫌だ。
自分の自由を大切にしつつ、人の自由も侵害したくない。
たとえ大切な人でも、お互いを束縛し合わねばならないなら、「いらない人リスト」へ持っていく。
「いらない人リスト」の人からのお誘いは、徹底して気づかないふりをする、あるいは、丁重にお断りする。
ちょうど先日、もう切れていたと思っていた「大学時代同じグループだった友人」から、2年ぶりのオンライン再会のお誘いLINEが来た。
いい子たちだし、嫌いなわけではない。
だが、「嫌いなわけではない」人間に、さも嬉しそうな顔で微笑みかけ、久しぶりの再会を喜び合うふりをし、これからはもっとちょくちょく会おうね~などという言葉を吐きながら仲良しごっこをするのは、結局のところ、わたしの心を曇らせることとなる。
一番大切なこと
恋人だから、恩師だから、お世話になったから、という義理人情に満ちた理由だけで人と関わりたくない。
たとえば、わたしが老いゆく両親と一緒にいるのは、
彼らとの日々の会話が楽しいから
彼らが経済的自立を果たしているから
生活上でお互いに無理のない「思いやり」が成立しているから
人として好ましく思っており、社会的・経済的に都合がいいから、わたしは両親と一緒にいるのだ。
けっして、「家族だから」ではない。
彼らの言動や状態がわたしの自由を侵害することになるならば(たとえば、介護が必要になるなど)、わたしはすぐさま彼らの下を離れるだろう。
同時に、わたしの存在が彼らにとって不必要な重荷となるのであれば、自ら自分自身の後始末をしたい。
それが叶わない状況も、往々にしてあるだろうが。
そんな来る日のために、わたしは身軽でありたい。