#2000字のホラー 雨の日の怪談
蒸し暑い夏の夜、会社帰りに立ち寄ったコンビニの自動ドアを出ると、俺は目をしばたいた。
雨だ。いつの間に?
夕食を牛丼屋で済ませ、その日に飲む缶ビールを買うために立ち寄ったのだった。雨が降ってきたのは、コンビニの冷蔵庫からビールを取り出し、ついでに手で裂けるチーズをつまみに選んで、会計している短い間のことだ。
チラリと傘立てを見ると、濡れた傘が数本ささっている。透明なビニール傘も二本あった。見咎められたとしても、特徴のないビニール傘だ。間違えました、と言い訳すればいい。
それに急に降ってきた雨なんだから、持ち主が買い物している間に雨も止むさ。
心の中で身勝手な言い訳をして、ビニール傘の片方を手に取った。本当の事を言えば、雨に降られて、傘を盗るのは初めてじゃない。俺の家には、持ち主のわからないビニール傘があふれてる。
歩き出すと、雨は視界が悪くなるほど降ってきた。街灯の灯りが頼りなくチラチラ瞬いている。ふいに、救急車のサイレンが遠くから響いてきた。雨の夜の救急車の音はなぜか不吉だ。
ああ、早く帰ろう
そう思って、自然に早足になった。
「……」
呼ばれたような気がして、耳を澄ませた。雨が傘を叩く音で周りの音はよく聞こえない。歩く速度をゆるめて、声が聞こえたらしい方を見遣る。
「あ」
思わず声をあげた。シャッターが下りている何かの店の小さな軒先に、女の人が濡れそぼって立っている。半袖のシャツにショートパンツ。寒そうに足をからませている。夏の夜とはいえ、濡れていては冷えるのだろう。
「あの、入って行きます?」
声をかけたのは、同情心からだろうか? それとも傘を「借りパク」した罪を薄めたかったから? 自分でもよくわからない。
うつむいていた女の人が顔をあげた。
あれ? どこかで会ったかな?
彼女の顔に見覚えがある気がした。けれどせわしく記憶をまさぐってみても、引っかかるものはない。
やっぱり初対面、だよな?
「えーと、別に、無理にとは」と、ぎこちなく言葉を継いだ。
まあ、どうせ断わられるだろう、という俺の予想を裏切って、彼女はすっと傘に入ってきた。
「どこかでお会いしましたっけ……?」
あまりに迷いのない態度に、やはり知り合いだったのかもしれないと思った。
「いいえ。知りません」
と、そっけなくそう答えた彼女の声にも、聞き覚えがある気がする。彼女に会ったとすれば、どこであったのだろう? 黙り込んだ俺の代わりに、彼女が口を開いた。
「ですけど、その傘のことは知ってます」
「は? 傘? そりゃ、なんのへんてつもないビニール傘ですから」
ははっと笑った。冗談だと思ったが、彼女は笑っていなかった。それからゆっくり、子供に言い聞かせるように、一言ずつ区切って言った。
「だって、その傘……、私の、なんですもん」
ドキッとした。
確かに、この傘は俺のものじゃない。他の誰かのものだ。
だけど、彼女のものでもない。たぶん。なぜなら彼女は、俺よりも先を歩いていた。後から来た俺が彼女の傘を盗める訳がないのだから。
「まさか……」
「信じられませんか? でも、柄に私が付けた印があるはずですよ」
そう言われて俺は、握っている傘の柄を見た。ただの白い柄だったはずなのに、俺の手の下には、赤い色が見えた。ぎょっとして手をずらすと、赤い色もずるりとこすれてのびる。錆びくさい臭いがつんと鼻をつく。
「ひっ! 血っ?! な、なんだよ、これ」思わず悲鳴に似た声をあげた。
「4ヶ月前、あなたが私の傘を「借りパク」した日も、今日みたいな、急な雨でした。
コンビニで買い物している間に傘を盗まれた私は、雨の中を走って帰りました。
雨で視界が悪かったし、雨を避けるためにうつむいていて、よく見えなかったんです。それで……」
彼女は一体、何を言ってるんだ? 以前、俺が彼女の傘を「借りパク」したって? 仮にそうだったとしても、なぜ彼女がそれを知っているんだ?
「あの、この傘、返します」
気味が悪くなり傘を彼女に押しつけた。受け取った彼女の手が赤く濡れている。ハッと見ると、足が脛で折れ曲がり、頭から血がしたたっていた。
「うわあああっ」
俺は闇雲に走った。
突然、キキーッというブレーキの音が雨の音を切り裂いた。地面を滑るタイヤの音、アスファルトが焦げる臭い……。
雨でよく見えなかったんだ。信号がすでに赤に変わっていたこと。
ヘッドライトに照らされて、視界が真っ白に染まる。
ドンッ!
全身に強い衝撃と痛みが走る。ダンプカーにはね飛ばされていた。意識が切れる直前、彼女が嗤った。
「ねえ、痛い?」
その声に記憶がフラッシュバックした。この痛みは初めてじゃない。
そしてまた、俺は全てを忘れてコンビニにいた。死の瞬間を繰り返すために。
外は急な雨、傘立ての中にはなんの変哲もないただのビニール傘……。
扉イラスト:水色奈月様に描いていただきました!
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