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ある一夜の出来事

 寝室からスマホの着信音が聞こえた。ラルクの『ヘブンズ・ドライブ』で、それは俺のスマホではないとすぐに分かった。サビの部分を延々と繰り返す着信音に、俺は口笛を吹いて合わせた。

 高一のころタワレコで初めてこの曲を耳にした。スピーカーから流れるハイドの歌声に自然と口を合わせて小さく動かし、家に帰るとき頭の中で鳴り続ける曲をバックに自作の歌詞を口にしていた。どんなことを歌っていたのかは覚えていない。多分、バラードだろう。愛だ、恋だ、学校だ、と身の回りにあることを題材にした内容だったと思う。一日中頭の中で流れ続けていた曲は半月もしないうちにどこかに消え、俺はまた新しい流行りの曲を口ずさんでいた。

 スマホの着信音が途絶えると、また静かになった。俺はグラスにジャック・ダニエルを注ぎ、一口飲んだ。舌をひりつかせる熱い液体を飲み込み、『日はまた昇る』のページをめくった。


 ジェイクたちがスペインに闘牛を観に行くとき、シェアハウスの同居人の悟が帰ってきた。悟は茶色いビジネスバッグを床に放り投げ、椅子に腰を下ろした。ネクタイを緩め、大きく息を吐いた。やっと深い湖の底から這い上がってきたみたいに何度も呼吸を繰り返し、頭を両手で抱えた。

「おかえり」

「ただいま」

 俯いたまま彼はまた大きく息を吐いた。背広の内ポケットからセブンスターとジッポライターを取り出して口に咥えた。ジッポの石を擦るがなかなか火はつかない。彼はライターを揺らし、もう一度火をつけようと試みたが、駄目だった。

「悪い、火を貸してくれ」

 俺はテーブルに置いてある百円ライターを叩いた。ライターは回転しながら悟の下へゆき、彼の手元で止まった。

 悟はもう一度ライターの火をつけた。今度はしっかりと火が立ち、彼は咥えた煙草を近づけていく。

「飲むか?」俺は本を裏に向け、椅子から立ち上がった。「ひどく疲れているじゃないか」

 彼は煙を天井に向けて吐き出し、小さく頷いた。

 戸棚からロックグラスを取り出し、彼の前においてやった。ジャック・ダニエルのボトルを傾け、注いでやると、悟は一気に飲み干した。

「ああ、マジムカつく」

 悟は空のグラスを差し出していた。俺はもう一度注ぎ、それから換気扇をまわした。

「どうしたんだよ。荒れてるじゃないか」

「クレームが来たんだ」悟は煙草の煙を吐き出し、グラスを口にした。味わうようにゆっくりと呑み、「取材先から出鱈目な内容を書くなって。会社にまで怒鳴り込んできやがった」

「何について書いたんだ?」

「押し紙についてだ」

「ああ、部数を盛ったってやつの」

「そう」

 悟が煙草を陶器製の灰皿に押し付けた。半分以上吸える煙草の巻紙から葉っぱがこぼれた。彼はフィルターの部分を手にしたまま灰皿に擦り付けている。

「こっちは都内の販売店を駆け回って裏をとったのに、デスクの中村が揉み消しやがった」

「どうして?」

「帝国新聞との関係が悪くなるからだ」彼は新しい煙草に火をつけた。「うちが新聞を発行できるのは大手新聞社から記事を提供してもらったり、催し物に案内してもらっているからだ、ってあの野郎は言うんだ」

「なるほど」

「いつもは表現の自由だとかなんだかんだと言っておきながら、これだ。やってられるか、クソ!」

 悟はグラスを空にし、またボトルを傾けた。

「これからまた記事を書かないと駄目なんだ」

「どうして」

「紙面を埋めるためだ」

「やらなきゃいい。勤務時間外に仕事をしても、給料が増えるわけでもないだろ」

「和希は分かっていない」悟は煙草を咥えたまま頭の後ろで手を組んだ。「記事を書かないと紙面に空欄が生じる。それじゃ新聞を期日までに刷れない。穴の空いたままの新聞が客の手に渡ったらまたクレームがくる」

「そんな奴らはほっとけばいいんじゃないか」

 悟が首を振った。「できないから書くんだよ」と言い、席を立った。

 悟は放り投げたビジネスバッグを拾い、玄関に向かった。

「どこに行くんだ?」

「雷門前のガストに行ってくる。今の時間帯なら客も引いて静かだろう」

「そうか」

「お前も書くんだろ? 次の公募用の原稿を」

 悟が灰皿に吸い殻を捨てた。まだ火がついている。

「奈美さんが戻ってきたら事情を話しておいてくれ」

「分かった」俺は手を挙げた。「無理するなよ」

「心配するな。書くのはこたつ記事で、誰も読みはしない」

 悟はグラスを空にすると玄関に向かった。ドアの閉まる音がした。足早く歩く音が聞こえたが、数分も経たずに途絶えた。

 俺は裏返した本を手に取り、続きを読んだ。いつのまにか灰皿に捨てられた吸い殻の火が消えていた。


 ブレットがロメロと出会ったあたりで本を閉じた。話が頭に入ってこず、ただ文字を追っているだけだった。これからってときに、俺は意識がほかのことにいっている。公募用の次作ではなく、悟が言ったことだ。今彼はガストで仕事をしている。誰も読みもしないこたつ記事を書き、明日の締め切りに間に合わせようとしている。

 反対に俺は違った。なにも書いていない。公募用の原稿に一文字も書かず、ロックグラスを片手に煙草を吸い、明日起きられるか心配しているだけだ。江東区の埠頭での荷下ろしのバイト。大島や新島の住民のために本土から生活物資を運び入れ、離れて暮らす親族に向けて積み込まれた手紙や故郷の特産品を運び出し、人と人をむすび繋げる意義ある仕事に行かなければならなかった。

 この仕事を続けていて、利用者から感謝されたことはない。届くのは遅延に関するクレームぐらいだ。

 人が他人に感謝するのは困っているときだ。ふだんの日常は波風もなくただ過ぎていく。荒波や強風のときだけ、人は他人に頼り、そして感謝を口にする。ありがとう、助かりましたって。

「なにぶつぶつ言ってるの」

 顔を上げると、奈美が立っていた。癖っ毛の強い黒い髪を一つに結び、ハイビスカスな柄のサマーワンピースを着ていた。その背後から背の低い女が顔を出した。

「どうも」

 背の低い女は軽く会釈し、また奈美の後ろに隠れた。

「ちょっと、そんなおどおどしないで」

「だって、初めてだし」と背の低い女が言った。

「新しい住人か?」

「どっちかというと、泊まりに来た友人よ」奈美が白い紙袋をテーブルに置いた。「ほら、自己紹介しな」

「はじめまして、朝倉真希です。よろしくお願いします」

 真希がまた軽く会釈した。彼女の持ち物は角型の牛革トランク一つだけだった。

「どうも、高橋和希っす」

「カズは小説家志望なの。真希と話が合うんじゃない」

「そうかもね」真希が口角を広げ、白い歯をのぞかせた。「えーっと、和希くんはどんな小説が好きなの?」

「そうだな」俺は煙草を咥えたまま天井を見上げた。煙草の火がゆらめき、煙が換気扇に吸い込まれていく。「ヘミングウェイとか、ケルアック。古いアメリカ文学が好きだな」

「へえーそうンなんだ。いいね」真希が向かい側の椅子に腰を下ろした。「私は欧米文学ってあまり詳しくないんだけど、どんなところがいいの?」

「どんなところか、か」俺はもう一度天井を見上げた。煙草の火が消えていた。「単純にかっこいいからかな。ヘミングウェイはタフでハードな作風で、ケルアックは既存の社会システムに反抗したりして、そういうのが響くんだよ」

「へえー」

「要するにカズの心はまだ幼いってこと」

 奈美が冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、一本を真希の前に置いた。

「あー、なるほど」真希がタブを開けて一口飲んだ。「たしかに古いアメリカの映画とかにもそういった作品あるよね」

「摩天楼とか、ロッキーとかね」

 奈美が椅子に座ると、俺の煙草から一本取り出し、火をつけた。彼女は膝を組み、赤茶色の肌を露わにした。肉感があり、相変わらず色気が漂ういい脚だった。

「でもそれはもう昔の話で、今は多文化性が中心になってる。奴隷の子孫とか、経済格差もそう。ジェンダーとかいろいろと社会批判の強い作風が主流よ」

「奈美ちゃん詳しいね」

「この前アメリカで個展をしたときに向こうの人からいろいろと教わったの」

「へえーすごいなー」

 奈美がアメリカでの話を続けた。ロスアンゼルスやサンフランシスコ、ワシントン、それにニューヨークでの出来事を真希に教えると、彼女は目を大きく開き、感嘆の息を吐いた。

「それで、それで」と真希は子どものように奈美に話の続きを急かした。奈美は困惑しながらも何処か嬉しそうな表情をし、一つ一つの出来事を丁寧に伝えた。

 俺は椅子を揺らしながら二人の話を聞いた。ジャック・ダニエルのボトルは空になり、煙草もなかった。ロックグラスの残りを味わうように舐めた。

「そうだ、悟のことだけど」

「帰るのが遅くなるんでしょ」

「知ってるのか?」

「うん」奈美が煙草の煙を吐いた。「さっき真希を迎えに行ったときにばったり会ったの。とても不満そうな顔をしてた」

「あいつは顔によく出るからな」

「その人って、奈美ちゃんたちと一緒に暮らしている人?」

「そうよ」

「その人も小説家志望なの?」

「違う。あいつはシナリオの方を希望していた」

「へえーすごいねー」真希が缶ビールに口をした。「じゃあ今いないのは脚本を書くのに忙しいから?」

「違う。業界紙の記者をやってる」

「へえー記者でも凄いじゃん。文章に携わる仕事にしてるんだから」と真希が言った。「で、和希くんはどんな仕事をしてるの?」

 真希の目が大きく開いていた。彼女の視線はまっすぐ俺に向けられている。俺は目を伏せた。

「ねえ、教えてよ」

「今カズは本を書いているの」と奈美が言った。「で、ときどき気晴らしに荷下ろしのバイトをしたりしてる」

「へえーそうなんだ、凄いなー」

 俺は顔をあげた。奈美と目があった。彼女はすぐに真希に顔を向けた。

「それで真希はどうなの。上手くやってる?」

「やってるよ。来月、三冊目を出すし、それに今度こそ奈美ちゃんに表紙を描いてもらうからね」

「別にいいけど、なるべく早く言ってよね。私も予定があるんだから」

「わかってるって」真希が奈美の肩を叩いた。「私はもう昔の甘々ちゃんじゃないんだから」

「真希ちゃんの仕事って……」

「小説家だよ」と真希が言った。


 煙草とウィスキーを買うために部屋を出た。玄関に向かうとき、奈美が声をかけてきた。二人の分も買ってきて、と。

 俺は手をあげて返事をした。背後からは二人の女の黄色い声が聞こえていた。彼女たちは推しの映画俳優やアイドルについて語っている。話題にのぼる俳優たちの名前は分かるが、顔が思い浮かばなかった。

 千束通り商店街を歩いた。煙草もウィスキーも近くのコンビニに売っていた。奈美の分の缶ビールも置いてある。肉のハナマサに寄れば、定価よりも安く買える。ドンキーだとよりバラエティに富んだ商品を手にすることができた。

 でも、俺の足が向かっていたのはガストだった。外国人観光客で溢れる浅草六区を通り抜け、仲見世通りへと避難して目的地に辿り着いた。

 店内に入り、赤錆色の肌をしたウェイトレスに待ち合わせていることを告げた。彼女は日本語を流暢に使いこなして、白い歯を見せて笑ってくれた。

 悟を見つけるのは簡単だった。喫煙席に行けばよく、彼はそこを定席としていた。そして今夜も彼はそこにいた。火の消えた煙草を咥えたまま、狂ったようにキーボードを叩いていた。マシンガンの弾でもばら撒くみたいにキーを叩く音は途絶えなかった。

「よう」

 悟が視線を向けたがすぐに画面に戻し、

「どうした?」

 と言った。

「奈美たちから逃げてきた」俺は向かいの席に座り、メニュー表を手に取った。「記事の方はどうだ?」

「あと少しで終わる」

「何を書いてるんだ?」

「新聞週間の広告塔に採用されたモデルについての記事だ」悟のキーを叩く音が強くなっていく。「他紙の記事やネットで検索した結果を参考にしている」

「パクリ記事ってことか」

「パクリじゃない」悟が手を止め、パソコンを閉じた。「プレスリリースを書き直したようなもんだ」

 悟は咥えたままの煙草に再度火をつけ、灰皿に灰を落とした。呼び出しベルを押した。さっきのウェイトレスがやってきた。

「チョコバナナサンデーを一つ。それから」

 悟が視線を向けてきた。

「ドリンクバーを一つ」

「かしこまりました」

 ウェイトレスは白い歯を見せて笑い、厨房へと歩いて行った。

「意外だな」

「何が?」

「悟が甘いものを頼むなんて」

「時々無性に食べたくなるんだ」悟が吸い殻を灰皿に押し付けた。「それにストレスがたまっててな」

「なるほどね」俺はズボンからライターを取り出した。「悪いんだけど、煙草もらっていい?」

「いいぜ」

 悟はセブンスターの箱を投げた。俺は受け取り、一本取り出して火をつけた。味はひどく不味かった。咳き込み、普段よりゆっくりと吸った。


「奈美が連れてきた真希って子は小説家なんだってよ」

「マジ?」

「ああ。それで、今度新しく出す本の表紙に奈美の絵を使うんだってよ」

「へえー、すげえな」

 悟はパフェグラスをしっかりと握り、スプーンで生チョコとソフトクリームをすくって口に運んだ。真剣な顔つきで話を聞いているが、同時に真剣にパフェに夢中になっている姿に失笑してしまった。

「なんで笑うんだよ」

「わりー、真剣な顔つきでパフェを食べているのが可笑しくてさ」

「はあ、ただパフェを食べてるだけだろ」

 悟は言い終えるとまたスプンでパフェをすくっていった。グラスの底をしっかりと握り、目の前の甘いデザートに夢中になっている。俺は冷めたブレンドコーヒーを口にし、セブンスターを吸い、煙を天井に向けて吐いた。

「それにしてもどうして奈美さんと別れたんだ」悟はパフェを食べ終えていた。彼は口についた生チョコを舌で舐め取り、煙草を咥えた。「彼女と付き合っていたら、和希も今と違ってただろ」

「そうだな」

 俺は椅子の背にもたれた。白い天井だが、ヤニでひどく汚れている。四半世紀分の喫煙者のヤニが積もった結果が天井の汚れだった。悟がしつこく尋ねてくるが、俺は口にしたくなかった。

 奈美との付き合いは長い。東京に出てきて、最初に知り合ったのが彼女だった。ゴールデン街の飲み屋で出会い、互いにやりたいことを話した。俺は小説で、彼女は絵を描くことで生計を立てたい、と。それから仲を深めていくのに時間はかからなかった。金を節約するために一緒に暮らし、活動した。そして芽が出て、花を咲かせたのは彼女だ。俺は芽が出ず、終わった。種も腐り、魅力も無くなった。彼女のお荷物になるのだけは嫌で別れた。どこか遠い場所で息を潜めて生きていこうと決意したのに、奈美が引き留めた。

「なあ、おい」

 悟は尋ね続けていた。俺は灰皿に煙草を押しつけた。

「つまらないプライドを守るためだ」

「なんだよ、それ」

「悟には分からないさ」俺は席を立った。「さあ、そろそろ帰ろうぜ。奈美に怒られちまう」

 俺は伝票を持ってレジに向かった。


 部屋に戻ると真希と奈美は出来上がっていた。キッチンにはドミノピザの食いかすが散らばり、アサヒビールの五百ミリ缶が何本も転がっていた。

「カズ、遅い!」

「悪いな。迷子になってたんだ」俺は買い物袋から煙草やウィスキー、彼女の注文の品などを取り出してテーブルに置いた。「お前どれだけ飲んだんだ?」

「私はね、三本」真希が空き缶を手前に並べ、買ってきたばかりの缶ビールを手に取った。「それでこれが四本目。私すごいでしょ?」

「私も飲む」奈美が缶ビールを手に取った。でも彼女はうまく開けることができなかった。

「カズ、開けて」

「もう、止めとけ。体を壊すぞ」

「私の身体をどうしようと私の勝手じゃない」

 俺は奈美から缶ビールを取り上げた。彼女は食いかすのピザを手に取り投げてきた。顔に当たった。トマトソースやチーズがついた。冷めていたピザが床に落ちた。俺は顔についた汚れを拭った。チーズもトマトソースも冷たかった。

「もう、止めとけって。本当に飲み過ぎだぞ」

「へえーすごい」真希が指を指して笑っていた。彼女は俺を肴にして缶ビールを飲み続けている。「元カレなのにすごく優しいね」

 真希の高笑いがキッチンに響いた。彼女はシンバルを持った猿のおもちゃみたいに手を叩いていた。

 でも彼女にとっての猿は俺だった。俺は動物園の檻で飼われている猿だ。彼女は金を払って入園してきた客だ。どこにでも行くことができる。檻の中にいる俺はどこにも行けない。

「ねえ、真希さん」悟が椅子に腰を下ろし、缶ビールを手に取った。「今度本を出すんですよね」

「うん、出すよ。有名な批評家に帯も書いてもらったの」

「へえ、それは誰ですか?」

 真希が口にした名前に悟は驚き、口笛を吹いた。

「それはすごい、もしよかったらその経緯について話してもらえませんか?」

 真希が頷いた。頬が赤く染まり、呂律が回らなくなっている。

 奈美は俯いていた。肩を揺すってみたが、寝息が聞こえてくるだけだった。俺は彼女を背負い、寝室に向かった。ドアを開け、照明のスイッチをつけた。床にはラフ画が散らばっていて、足の踏み場がなかった。

 ラフ画を踏み、彼女をベッドに寝かした。寝息を立て、当分目覚めそうにない。俺は床に散らばったラフ画を見た。どれもデザインが違っていた。大きくばつ印をつけた絵もあった。奈美が今の地位に辿り着くまでどれだけの絵を描いたのか。想像できなかった。この部屋を埋め尽くしても足りないのかもしれない。

 部屋を出るとき、スマホが鳴った。ラルクの『ヘブンズ・ドライブ』だ。ラフ画の下に隠れていたスマホを取り上げると、知らない男の名前が表示されていた。

 サビの部分を何度か繰り返し、着信音が止んだ。

 奈美の枕元にスマホを置き、部屋の照明を消して俺はキッチンに戻った。

                                  


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