派遣録71 準職員採用試験(再)

怒りの果てに…。

 友村のBBAに怒り💢、我慢し、決められた仕事をして、と忙しい中、俺には“ある感情”が芽生えて来た。
 
 それは『このまま(アシスタント職員)で良いのか?』ということだ。

 (…事務の女の子の仕事)などとどこか卑下していた(失礼💦)していた庶務業務もやり始めるとなかなか難しく簡単ではなかったが、所内の“関係性”が見えてきて、それなりに遣り甲斐があった。
 また厚生年金の知識は少しだが増えていた。電話などの対応もできていた(と思う)。怒られるのにも慣れた(笑)

 だが、俺の立場は“最下層”のアシスタント職員(非正規)。
 雇用契約は『三年更新』だが、その時期はまだ先だった。

 だが、このまま、いつまでもアシスタント職員でいいのか?
 “志の輔”(のクソ課長)は異動したが、頭に来る奴だった。散々小馬鹿にされた。
 正規職員“福原”(仮名)は、以前より優しくなった気もしたが、やはり、相変わらず俺を小馬鹿にして、アシスタント職員(非正規)などクソのように思っている様子だった。
 そして、同じアシスタント職員の“友村”(BBA=仮名)は、俺に仕事を押し付けてきて自分では動かない。

 “こんなところ”で俺はずっと働くのか?
 それとも“山代”(仮名)のように公共機関を“ワタり”するようになるのか?
 それは嫌だった。

 アシスタント職員として年金事務所に採用された当初は、(ここはあくまで“一時しのぎ”。早く正規の仕事を…)と再就職活動を優先するつもりが、気が付けば年金事務所にどっぷりとハマっていた。
 受付書類の記載と仕分けはすぐにできるようになり、事務所内の“要望”にはすぐに対応するようになった。
 輪転機の扱い方に慣れ、カラーコピー機のインク切れにはすぐ気付くようになり、徴収課の帳簿の“提出”のサイクルが自然と覚えてしまった。
 備品の残数を把握して福原に相談し、発注するのも慣れていた。
 これをずっとしていくのか?
 もしくは、ここまで働いてきたのに俺は辞めるのか?
 何の為に堪えてきた?

 俺の中に沸々とした💢と、不安💦、そして希望✨が満ちていた。
 (…このまま“終わり”たくない)
 (でも、契約を更新しなければ、どうする?)
 (また、日雇いか?、嫌だな)
 (…ここで働きたいな)
 (働けないかな?✨)

 友村のBBAと口論💢しつつ、俺は“この状況”を変えたくなっていた。
 現状に怒り、そして将来が不安だった。
 俺の未来はどうなるのか?
 このクソBBAと口論している場合か?


氷河期”から来た男

 俺は一般的に“就職氷河期世代”と言われる。
 だか、自分の貧困を時代や社会のせいにするつもりは無い。俺の大学の同期には今も会社でバリバリ働いていたり、正社員として頑張っている奴等がいる。(…そうじゃない奴も多いが)
 
 この時(2010年秋頃)、俺は悩んでいた。
 …というか、この会社(年金機構)で働こうと思い始めていた。

 ここまで散々と辛酸を嘗めてきた。
 ブラック企業ではゴミのように扱われ、せっかく就職した求人誌の会社では正社員にしてもらったら、すぐに解雇(リーマンショック)。日雇い派遣では人間扱いされた…。
 そんな俺が少しでも“普通の仕事”を夢見てはいけないのか?
 志の輔や複原らの性職員には、小馬鹿にされ、友村には仕事を押し付けられ、俺は何の為に働いているんだ?
 少し位は、“偉く”なろう(職員)としても良いのでは?
 “変えたい”と願ってはダメなのか?
 せっかくここ(年金事務所)で一年以上働いてきたのだ。ここで『働きたい!』と願っても悪くはないはずだ。(と思えた)

 それにもう福原などから『…所詮はバイト(非正規)』と見られるのが、嫌だった。
 課長だろうが、正規職員だろうが、同じ人間だろ?
 差別されるいわれはない。
 小馬鹿にされたくない。

 …さらに。

 少し書いたが、俺に交際している女性がいた。
 年齢も30代。
 そろそろ身を固めたかった。
 実弟もリーマンショックの年(2008年)に結婚しており、俺もそうしたかった。
 だから、正規の仕事に就きたかった。
 
 社会に出てから、俺はずっと“氷河期”だった。暖かな時代を過ごしたかった。

準職員採用試験、再び


 そんな2010年の年末、
俺は『準職員採用試験』の知らせを見た。
 以前いた池田(仮名)が採用されたあの試験だ。
あの時はその後に俺も願書を出したが、書類で落とされた…。

 
これを見て俺はにわかに思った。
 (…また、応募しようかな?)
 “準職員”もあくまでは非正規だ。契約期間がある。
 だが、待遇はアシスタント職員より上がるし、なおかつ正規職員への採用の道がある。
 
 俺はまず、所属の厚生年金適用調査課の課長に相談した。
 少し不安な感じもしたが、この課長はあの志の輔(のアホ)より話が出来た。

 課長は「…いいんじゃないの?、頑張りな」と言ってくれた。
 俺はにわかにやる気になっていた。この現状から抜け出したかった。
 福原にも準職員採用試験を受ける事を伝えると、「あっ、そうなの。頑張りなー」とにこやかに言ってきた。

 それなりに応援してくれている気がした。

 そして、課長の口添えがあったのかは、判らないが、俺は種類審査を通過して、年明けに中部ブロック本部(名古屋)で面接を受ける事になった。
 俺は準職員が現実味を増してきて、かなり期待していた。

 2010年の年末を俺はいつになく明るく迎えていた。
 希望に溢れていた。
 何故なら、非正規の状態からようやく脱する目処が立ってきたからだ。

 クリスマス、大阪で彼女と会った。
 採用試験の話はしなかった。
 採用が決まってから伝えようと思っていたからだ。

 そして、年明け(2011年)に仕事を休み、俺は名古屋の中部ブロック本部で面接を受けた。

 …内容はほぼ覚えていない。
 これまでの業務内容などを訊かれ、これまで経験してきた仕事の事などを尋ねられ記憶がある。
 面接の手応えは、正直、悪かった…。

 だが、俺は前向きだった。
 元々、1度は書類選考で落とされている。期待しても仕方ない。
 結果が出るまでわからない。年金事務所の面接も良くなかったか、採用された。
 
 俺は“良い知らせ”を待った。
 事務所でのここまでの“苦労”(?)、今まで(解雇、日雇い)の事。それをこの“準職員採用”で“帳消し”にしたかった。
 この現状を変えたかった。期待した。

2011年2月…。

 今から思えば、この頃から俺の体調はおかしかった。
 年末にまた首の付け根が痛みだし(…と思えた)、俺は(…疲労かあ)と思い込んでいた。
 よく行くスーパー銭湯などで長湯をしたり、サウナに入ったりしたが、痛みは消えなかった。

 今から思うと、俺の身体には明らかに変調が見えていた。
 だが、それを準職員採用試験が“感じなく”させていた。

 俺は本当にバカだった。 
 
前年から続く身体(特に首)の痛みは何なのか?
 試験を受ける際の課長の“あっさり”とした態度は?(福原も…)
 名古屋での面接が手応えが薄く、不調だったのは?

 …もっとよく考えていれば、結果はおのずと見えていたのだ。だが、俺の期待がそれを上回っていた。
 
本当にバカだ。

 そして、運命の日がくる。
 2011年2月18日…。
 あの大地震が起こる約1ヶ月前、俺の人生も大きく変わる事になるのだ。


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