ゆっくり万葉集
機会があって、万葉集の十七巻あたりを読んでいます。
(現代語訳対照 万葉集 桜井満 訳注 旺文社文庫)
忽ちに枉疾に沈み、殆に泉路に臨む。
よりて歌詞を作りて、悲しびの緒を申ぶる一首(短歌をあわせたり)
大王の 任のまにまに ますらをの 心振り起こし
あしひきの(枕詞) 山坂越えて 天離る(枕詞) 鄙に下り来
息だにも いまだ休めず 年月も 幾らもあらぬに
うつせみの(枕詞) 世の人なれば うちなびき 床に臥い伏し
痛けくし 日に異にまさる
(以上が第一段。越中国に下って病気になったことを述べています)
たらちねの(枕詞) 母の命の 大船の(枕詞) ゆくらゆくらに
下恋に 何時かも来むと 待たすらむ こころさぶしく
はしきよし 妻の命も 明け来れば 門に寄り立ち
衣手を 折り返しつつ(思う人を招き寄せる呪術?)
夕されば 床うち払ひ ぬばたまの(枕詞) 黒髪敷きて
何時しかと 嘆かすらむぞ 妹も兄も 若き子どもは
をちこちに 騒き泣くらむ(以上が第二段、家族(母、妻、子に思いをはせています)
玉鉾の(枕詞) 道をた遠み 間使も 遣るよしもなし
思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし こころは燃えぬ
たまきはる(枕詞) 心惜しけれど 為むすべの たどきを知らに
かくしてや 荒し男(益荒男)すらに 嘆き伏せらむ(以上が第三段、任地での病臥を嘆いています)
大伴宿禰家持が、天平十九年二月二十日頃、越中国で病に苦しんで
作った歌のようです。
泉路とは黄泉路の事で、まさに死ぬ思いをしながら作った歌なんですね……。
旧暦の二月二十日ですので、ちょうど今の時期になりますね。
世間は数なきものか 春花の散りの乱ひに死ぬべき思へば
(この世の中は儚いものだ。春の花が散り乱れる中に死んでいく事を思うと--)
山川の退方を遠み はしきよし 妹を相見ず かくや嘆かむ
(山や川の果てが遠いので、いとしい妻に会う事が出来ず、このように嘆いていることであろうか)
この二首が反歌になるようです。
春の花が散り乱れる中、山河の果てにいる愛しい恋人の事を思って
死にかけている家持。
万葉集というと、素朴でおおらかな歌が想像されることが多いようですが
それも時代や歌人によるようで、家持の歌はわりに、現代風なドラマを
感じさせる事があります。
次は、家持の親友池主のことなどにも触れてみたいと思います。
春の花と言えば、桜はこちらではもう散りましたが、やはり
家持と言えば、多くの日本人が思うのは桃……なんでしょうかね。
ここに歌われている春の花と言うのは、どれをさすのか
色々想像を巡らせてしまいます。
大伴家持は、私の中では万葉集の中でも巨人といえる歌人。その人生をたどるように歌を読んでいきたいですね。
私自身、短歌にちょっぴり興味があるのですが、詠めるようになってみたいものです。