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「大きすぎる責任」は成長へのレバレッジ

12月と言えば忘年会シーズン真っ盛りだ。

30半ばにもなると、仕事での付き合いも指数関数的に増えていき、僕も連日飲み会続きである。

そんなお酒の席で若手の先生と話していて少し気になる話題があった。

それは、

“若い医者が責任を負って治療方針を決定する機会が激減している“


という話だ。

これは個人の力量や能力に起因する問題ではない。

研修制度や働き方改革、そして医療に向けられる厳しい社会の目…

多くの因子が複雑に絡みあった結果、

「若手に任せるというリスクを負いたくない上司」「シンドイ思いをしてまでリスクは取りたくない若手」

の間で、ある種共犯者めいた暗黙の合意形成が為されているのだ。

「無理してまで責任を抱える必要はない」


このスタンスは果たして若手にとって福音なのだろうか?

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医者の世界では20年ほど前から新臨床教育制度というものが普及している。

簡単に説明すると、6年かけて大学を卒業し、医師免許を取得した後、2年間を「研修医」という立場で、色々な診療科をローテートしながら研鑽を積むことを義務付ける制度だ。

2年間、雑用をこなしながら各診療科の基本的な知識や手技を学びつつ進路を決める。

そして2年間の研修医を終えた後に、自身で選択した「専門科研修」へと進んでいく。

これが現代の医者の一般的なキャリアコースだ。


この制度導入以前は今と随分と様子が違ったようだ。

簡単に言えば、医学部を卒業した瞬間から専門科の医者として扱われたのだ。


医学部6年の3月に大学を卒業し、4月1日から「脳外科医の〇〇です」「私は産婦人科を専門としています」と名乗れたということだ。

専門科の選択方法も当時の医学部独特のシステムだった。

在学中に先輩医師たちとの飲み会で、酒の勢いで志望科を宣言した結果、そのまま進路が決定してしまう、なんて話も珍しくなかった。

そんなこんなで、卒業前には自身の「専門科」が決まっている人が大半で、卒業と同時にその科の医者として働いていた。



そんな時代の話をひとつ紹介しよう。


僕の尊敬する上司であるA先生が経験した壮絶なエピソードだ。

医者になりたてホヤホヤ一年目のA先生循環器の当直を任されていた。

大きな病院の院内に循環器内科医はA先生一人という状況である。

そんな中、救急車で重症の交通事故の患者が運ばれてきた。

救急科の先生からA先生に

心嚢穿刺が必要かも知れないから来て欲しい」

と電話がかかってきたのだ。

「心嚢穿刺」とは、胸の上から直接心臓に針を刺す処置である。

心臓を包む膜心臓の間に溜まった血液などの液体を抜く処置だ。

重症交通外傷などの切迫した現場では緊急で行う必要がある。

胸の上から針を刺し、心臓の外膜を貫くがその先の心臓には刺さらないように数ミリ単位で針を進める技術と度胸が求められる。

もちろん針先は見えない。

心臓に穴を開けてしまえば、最悪そのまま患者は死ぬ。

非常に気の張る手技だ。

現代の常識では医者なりたての1年目が1人で緊急で行うことはまずあり得ないだろう。

ところが昔は違った。

状態の悪い患者の命がかかった状況で一体誰が針を刺すべきか?

息の詰まる空気の中、A先生はさすがに1年目のペーペーである自分には荷が重すぎると尻込みをしていると、

遥かに年次の上の救急医から

「循環器だろう!お前が刺すんだ!」

と叱責されたのだ。

A先生は震える手を必死に抑え、多くの人が見守る中で初めてその手技を行った。

運良く成功し、患者は一命を取り留めた。

A先生にとっては初めてがそんな状況であったため、心嚢穿刺についてはそれ以後も自信をもって一人でできるようになったと笑いながら話していた。

現代の医療機関であれば医者1年目に生死に関わる判断と手技を一任するような状況は起こり得ないだろう。

昔の医者は若くして過大な重責を負っていたことが窺い知れる。


当時の大学教育が特別実践的で現場で即戦力になれるカリキュラムであったわけではない。


単に社会人1年目から本人の能力に比して、全く釣り合わないレベルの「責任」を負わされていただけだ。

"明らかに身の丈に合わない重積を背負う"

これが当時の医者のスタンダードだった。

患者にとってこれがベストか?という問題はさておき、現場で求められる実力を早々に獲得するため当時の医者たちは、

「責任」をレバレッジに急峻な成長をしていた


ということがよくわかる。

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現代の医療現場ではこうはいかない。

10年ほど前に研修医をやった僕も、A先生のエピソードほどハードな経験はない。

最近ではさらに拍車がかかり、ハラスメントの隆盛も相まって「若手に責任を負わせる」ことを忌避する時代になっている。

研修医の一人当直は禁止されているし、治療方針を全て上司が決めてしまうケースも増えている。

入院の可否、治療薬の選定、手術の適応…

手技のみのらず、「ありとあらゆる決定権と責任は上司が抱え、下はその判断を待つ」ということがスタンダードになっているのだ。

もちろん部下として上の指示を仰ぎ、見様見真似で技術や知識を吸収していく姿勢はもちろん大切だ。

治療自体のクオリティだって、きっとその方が担保されるだろう。

一方で、これが当たり前に常態化し、「決めるのはどうせ上だから」を口癖にしてしまうとどうなるか。

判断の難しいシビアな決断や、合併症と命を天秤にかけリスクを選択する行為などの、自らに痛みやプレッシャーを伴う経験が欠如してしまう。

これでは以前医者にとっての標準コースであった「大きすぎる責任をレバレッジに成長する」という手法が使えなくなってしまう。

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「そうは言ったって下が育たないと、上も困るだろうから、誰かがなんとかしてくれるだろう」

もしあなたがそう感じているのであれば、それは少々甘過ぎる。

下の停滞は上司にとっても不利益である一方、メリットが無いわけでもない。

「下が成長しないため仕事を任せられない」というのは確かに面倒だ。

一方で、「下が能力不足でまだ責任を取れない立場ということは、自分たちの存在意義がそのまま証明されている」という意味にもなる。

昨今の萎んでいく保険診療の市場を考慮するの、少なくなったパイを取り合う世界線は充分に考えられる。

職場内での椅子取りゲームが始まってしまえば、若手はどう足掻いても競り負けてしまう。

責任を取ることが罰ゲームかのように扱われ、忌避されている反面、責任を取れる立場には価値ある仕事が流れてくるというのもまた事実なのだ。

「責任を回避できた、ラッキー」と言っている間に、上司との間にあった差はさらに開いてしまう。

そして責任をとってきた猛者たちは、互いに診療科や病院などの垣根を超えてどこかで心の底で分かり合えるという点も脅威だ。

責任を取ってきた人間は、そういう顔つきになっている。


まさに「面構えが違う」というやつだ。


その両者の関係性は強固になりやすく、同志のような連帯感を生む。

その交わりから大きな仕事が生まれることは決して珍しくないし、割りのいい仕事や特別な待遇というのも、そのレイヤー内で循環する


責任をとれない人たちには、上澄をすくわれた後の泥水しか残っていないことも残念ながら少なくない。


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責任を取れる環境に飛び込みレバレッジで飛躍するという選択を取るべき否か。

そのどちらが正解か?ということをここで決めつけるつもりはない。

身に余る重責により、心身を壊してしまう医者もいる。

能力を遥かに上回る大きな責任を抱え込んだ結果、能力不足により患者が不利益を被ることもある。

一方で「責任のレバレッジ」を使って成長したからこそ救える命もある。

その是非は極めて個人的な問題で、決着をつけることは難しい。

各個人が理解するべきことは、どちらのスタンスが正解か?ではない。

責任の忌避と成長がトレードオフである自覚と、自分自身がどちらかを選択するのか、という覚悟である。

僕は「責任のレバレッジ」が効かせやすい病院を選んで働くことで、人より早く成長しようと考えた。

友人の中にはプライベートや趣味の時間を大事にするため、責任とは距離を置き、緩く安全に研修できる病院へと就職した者もいる。

両者はスタンスの違いであり、互いに筋は通っている。

ただ、

「責任を負いたくないが、早く成長したい」

こればっかりはどうしたって叶わないのである。

このトレードオフは受け入れなくてはいけないし、覚悟をもって能動的にどちらかを選択する必要がある。

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どちらの道に行くかは各人が自らの哲学に照らし合わせ、好きなように生きればいい。

僕らにはその権利があるし、特に現代は個人の多様性に寛容だ。

ただ現実問題として、強制された過大な責任をレバレッジに高出力で上昇していった層が上に詰まっていることは事実だ。

現代では、職場が許さなかろうと、働き方改革があろうと、彼らと対等に張り合うには、「責任のレバレッジ」は利用せざるを得ないツールだろう。


責任の抱え込み方についても、現代では多様な選択肢が現れてきている。

古くから伝わる「なんでもやります!」の精神で緩くなった周囲を圧倒する量の仕事を取りまくり、職場内での決定権のある業務を勝ち取る方法も良い。

また、スタンスを少し広げ、副業事業を展開し、「自分だけのビジネス」を持つことも責任を抱える行為そのものであろう。

若くエネルギー溢れるうちに、能動的に責任と向き合うことは決して無駄にならないはずだ。


そして最後にもうひとつ。

極論「キャリア」に限って言えば、成長は望まず、責任を他者に委ねることで回避し、のらりくらりとやり過ごしていくことは可能だ。


ただ、生き方有り様については、あなた以外の他の誰にも責任を取ることができない。

生き方を肯定できるかどうかは全てが自分の責任だ。

そして覚悟を伴った選択の連続こそが、その人の人生そのものである。

「自らが抱えてきた責任」というものは、その人生に少なからず意味を与え、その存在をそっと肯定してくれるものだと思う。






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