横谷茂

2017(H29)にテーラワーダに出会いました。定年退職を機に仏教ライフをしています。…

横谷茂

2017(H29)にテーラワーダに出会いました。定年退職を機に仏教ライフをしています。札幌でダンマサークルをやってます。 https://sapporodhamma.wixsite.com/sapporodhamma

最近の記事

307 自我を破るための努力をしよう

 エゴを薄くするため、なくすために、他人のことを心配するなら、それは“大きなお世話”にはなりません。  たとえばボランティア活動をする場合でも、苦しんでいる人々を助けてあげて、それによって自分もエゴをなくすのだとはっきりしているならば、大きなお世話のボランティアにはなりません。自分のエゴを破るための行動になります。これはボランティアの正しいやり方なのです。  「あなた方を助けてあげているではないか」「これくらいやってあげているではないか」と、ボランティアの方々はよく自慢し

    • 306 自分とは、大海の一滴

       地球の四分の三ぐらいは海ですから、海というのはすごく大きいですね。しかし、どう見ても、一滴、一滴で海水でできています。  「私」と思う自分は、その一滴の水のような存在です。たくさんの生命がいる中で、たった一つの生命として生きる「私」を海にたとえると、「一滴の海水として、海の中で生活している」状態です。  そのとき、「私」という一滴の海水が海としているなら、何の問題もなく、大丈夫です。  しかし、自分だけ、一滴の水だけ出しゃばって、威張って、「私が偉いぞ、特別だぞ、唯一

      • 305 自我=保守主義

         なぜ新しいアイデアが出ないかというと、自我があるからです。自我があるという錯覚に陥っているから、皆ワンパターンで決められた通り、教えられた通りのことをする保守主義になってしまうのです。  自我というものは「変わらない」「定まっている」「決まっている」という意味だからです。無我というのは、その反対です。進歩主義です。なぜなら「定まったものなんてないんだよ」ということだからです。 だからこそ私たちは、無我を学ばなければならないのです。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏

        • 304 自我がない生き方は自由自在

           自我とはどっしりと重くて動かない硬い石か岩のようなもの。他方、自我がない生き方は、空気のようなもの。空気になったら、自由自在です。ですから、自我を探してはいけません。岩になりなさいということだからです。どっしり一カ所にとどまってしまうことになります。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版 【無我の見方 サンガ新社2023年 p38】

        307 自我を破るための努力をしよう

          303 「自我を持て」という言葉は間違い

           自分というものがないと不安になるのは、自分では挑戦したくないとか、隠れていたいなどと、精神が腰抜けになっているからです。  そういう人は自我の錯覚をつくって、そこにひっかかって、しがみついているのです。  逆に自分がないということがわかると、自然と力が湧いてきて、すごく自由に生きられるようになります。ですから、「自我を持て」「自我を確立しろ」という言葉自体が間違いなのです。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナ

          303 「自我を持て」という言葉は間違い

          302 自分探しとは何か

           私たちは、ありもしない自我、永遠不滅で絶対に変わらない魂という妄想概念にしがみついてはいけないのです。これが人間だと言える確固とした実体があるという先入見に寄りかかることなく、「自分という流れ」をしっかり管理して、自分にも他人にも役に立つ人間にならなければなりません。  そのために自分の道を探すのが、本当の「自分探し」です。自分の、そして他人の役に立つための方法こそが、自分の本当のアイデンティティとなるのです。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること

          302 自分探しとは何か

          301 自我の錯覚の理解が幸福につながる

           関係ない他人事なら、悩み苦しみがないのです。自分のこと、「私のもの」に関することなら、ひどい悩み苦しみになります。  それをお釈迦様は、ぜんぶまとめておっしゃったのです。「すべての苦しみがたった一つの言葉、『私の』というところから生まれるのだ」と。  そうは言っても私のお父さんとお母さんは、「私の」両親ですし、私が買ったブランドのカバンは「私の」カバンです。「私の」ということは消せませんから、「『私の』というその『私』とはなんぞやと客観的に調べてください」とお釈迦様はお

          301 自我の錯覚の理解が幸福につながる

          300 自我がわかるとありがたみがわかる

           自我のしくみを理解すると、ものの見方が変わってくるはずです。誰もがみんなわがままであるのは当たり前のことだとわかります。  そして不満に思っていた周囲に対しても「みんなわがままなはずなのに、いろいろと私に協力してくれるものだなあ」と思えるはずです。つまり、自我が錯覚だと、頭の中でだけでも理解しておけば、人間は怒る必要も威張る必要もないのだと理解できるようになると思います。  たとえば奥さんにだって、自我はあります。本当はわがままで料理をつくりたくなくても、旦那さんに合わ

          300 自我がわかるとありがたみがわかる

          299 ありのままを知って悟る

           耳に絶えずなんらかの音が触れていますね。この本を読んでいる今も、何かしら聞こえているでしょう? その音だけを聞いてみてください。  「あ、これは鳥のさえずりだ」「カラスの声だ」「子供が遊ぶ音だ」などという妄想はしないで、音だけ聞きます。  そうすると、瞬間、瞬間、感情が変わること、聴覚が変わること、音も瞬間、瞬間、変わることを発見します。  「私」が、「自我」が、ないことを発見します。たちまち悟りに達します。それで苦しみが消えます。  頭の中で妄想しないで、捏造(ね

          299 ありのままを知って悟る

          298 自分とは「蜃気楼」

           「自分がいる」という実感から問題が起きた。お釈迦さまはその立場なんですね。だからわれわれ仏教では「自分がいる」ということは何なのか、そのシステムを分解してみるのです。  分解してみると、それはひとつの概念であって、別に実体はないとわかるでしょう、と説明します。  だから言葉のうえで、普通の会話上は、「自分」という言葉を使ってもかまいませんが、それには決して哲学的な、あるいは心理的な、あるいは実体的な中身はない。蜃気楼と同じなんです。いろんな原因で光が屈折して蜃気楼のよう

          298 自分とは「蜃気楼」

          297 「私」という幻覚

           何かを感じるたびに「私」「私」という幻覚が出てきて、その幻覚にすごく執着します。  「私」こそ何よりも大事だ、と思います。  「尊い魂がある」「かけがえのない自分」などと聞くと、嬉しくなります。  これらは、我々の弱みから来ています。私たちは、生きている中で、ものごとが自分の意のままにならないことを、いやと言うほど知っています。失敗したり、不安になったり、病気になったりする弱さを否定したいのです。自分にすばらしいものがあると思いたいのです。 『一分で読むブッダの教え

          297 「私」という幻覚

          296 自我を捨てれば問題はなくなる

           心というのは、わがままな大バカ者、手に負えない曲者(くせもの)です。エゴを守るためにあの手この手の言い訳を繰り出します。  では、どうすればいいかというと、答えは「自我を捨てること」です。自我からすべての問題が生まれるのですから、それがなくなれば問題も消えます。自我を捨てるということは、「自分の心は、弱くて脆(もろ)くて大したことないものだ。どうでもよくてくだらない心だから、誰のものでも別に同じだ」という事実を認識することです。自分という自我を完全に横に置いておければ、自

          296 自我を捨てれば問題はなくなる

          295 「私」とは感覚をまとめるラベル

           夫婦げんかをするのも「私」という意識があるからです。  こちらに「私」があって、向こうにも別の「私」があるのです。  親の亡くなった場面を考えても同じです。なぜ、親が死んだら悲しくなるのかというと、「私」の親が亡くなったからなんですね。悲しむからといって「『私』は優しい人間だ」というわけではないのです。世の中で親はいっぱい死んでいるのに、「私」の親が死んだときだけ、悲しいのです。  だから、あらゆる怒り、嫉妬、憎しみ、悲しみ、戦争、論争、ありとあらゆる争いというのは、

          295 「私」とは感覚をまとめるラベル

          294 私が正しいと世界が敵になる

           「我こそは正しい」ならば「世界が間違っている」ということになります。 それで、小さな「我」が世界全体を敵に回すことになって、限りのない苦しみの世界が現れてくるのです。  そこは認識のバグが入っています。手術して治さなくてはいけないのです。手術とは修行のことです。  だから、仏教の修行というのは苦行にはまったくなりません。ただ、「我は思う」という認識プロセスを管理するのです。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナ

          294 私が正しいと世界が敵になる

          293 世界を思い通りにしたいエゴ

           自分の希望通りに誰かが動いてくれないと、相手が悪いとか、ああだこうだと文句が出ます。世界の生命がみんな、自分のために働き、動いてほしいと心の中で思っています。  嘘ではありません。私たち人間は、みんなそうなのです。世の中のすべての生命が、「自分のため、自分の利益のために、自分の幸福のために、行動してほしい、活動してほしい」と、思っています。それが人間であり、もちろん、あなたもそうです。  人が通らない道で、一人の人間がラーメンの屋台をやることにしました。もう一人の人間が

          293 世界を思い通りにしたいエゴ

          292 誰もが「全知全能者」気取り

           人間は皆、「全知全能者」気取りなのです。  他人事ではありません。あなたも世界の王か何かのつもりなのですよ。  子供にもっと勉強してほしいと希望する。給料が上がってほしいと希望する。店にお客さんがバンバン来てほしいと希望する。すべて主観的な「わがまま」です。そのことに気づかずに、あなたも「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているのです。 『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【無常の見方 サ

          292 誰もが「全知全能者」気取り