クリスマスにいい想い出なし (1868文字)
私はカトリックの幼稚園に通っていたため、クリスマスは特別神聖な日と思っていました。
幼稚園では、12月の初旬にはいつもと異なるイベント(event 催し)が行われましたし、幼稚園と同じ敷地内にある教会から神父様がいらっしゃり、新約聖書のお話をしてくださいました(クイスマスは冬休みの期間中になるので幼稚園に集まることができないのです。)。
そういう捉え方をしていたので、小学校入学後に友人が「クリスマスはプレゼントを貰う日」としか認識していないことに物凄く違和感を感じました。
「クリスマスってキリストの誕生を祝う日」という趣旨からすると、友人らのクリスマスに対する気持ちには物欲しか感じられず嫌な感じでした。
私はキリスト教徒ではないので(特にこれといった宗教を信仰しているということもありませんし、どの宗教団体にも入っていません。)、友人らの言動に信仰とのずれを感じるということはなかったのですが、キリスト教という宗教に対して「申し訳ない」といううっすらした気持ちはありました。
ちなみに、私の親もクリスマス・イブにはお祝いし、夜私の寝ている枕元にプレゼントを置いておいてくれましたが、それはサンタクロースからの贈り物というより、市内のデパートで買ってきたという感じがする「まぁ、普通のおもちゃ」でした。
中学や高校は受験で忙しくてクリスマスはテレビドラマの中でしか見ませんでしたが、やはりそれも単なる「お祭りの一種」という扱いでした。
大学時代や就職すると、クリスマスにダンスパーティーを開くというイベントを経験しました、私も先輩からの指示(というか命令)により、パーティーの余興として当時人気のあったるアイドル(男性3人組)の踊りをやらされました。パーティーを盛り上げる余興です。余興をするのは、私を含めて3人でした。
この踊りは、TBSの『ザ・ベストテン』の録画映像を3人で見ながら覚えました。
パーティーではこの余興の後、一盛り上がりして最後にチークダンス・タイムになるわけですが、私は「これがクリスマス・パーティーかね。開催日が12月24日でなくてよかった。」と思っていました。
こういうクリスマス・パーティーって、ル・マン24時間レースのように、クリスマス・イブにできるだけ近い土曜日に行われたのです(ル・マンの場合は、夏至に近い週末に開催されます。)。
で、本当のクリスマス・イブが平日のときは、残業につぐ残業の毎日で帰宅する頃はデパートも商店街も閉店しており、綺麗な飾り付けやクリスマスでよく流れる曲が無人の歩道にこだましているという状態でした。
それらを見ると「みんなが楽しそうに過ごすであろうこのクリスマス時期に、なんでこんなに働かなきゃならんのよ。」と、社会からの疎外感を強く感じました。
クリスマスの時期は同時に年末の繁忙期でもありましたから、デパートでも商店街でも、シャッターの裏で多くの人たちが残業していたのだと思います。
そういう人たちも私も、「祈る」ということとは無縁だったのだろうと思います。とにかく、「夜が明けなければいいのに。」と思いながら帰路を歩いていました。
「夜が明けなければ明日の仕事に行かなくてすむ。」という単純極まりない思考です。
疲れすぎていて、こんなことしか考えられませんでした。
それでも、職場の労働組合が開くクリスマス・パーティーがありました。
でも、そこに集(つど)うのは、組合色の強い中高年の男女ばかりで、「働く仲間同士の団結を深めよう。」というメッセージ性が強すぎるパーティーでした。
そういう「参加者の誰もが、出会いを求めていない。」パーティー。それは、飲み会とあんまり変わりませんが、パーティーは立食なので飲み会より、立っている分疲れます。
それに、途中募金箱が回って来るのも辛かったです。私も手持ちのカネが多い方ではなかったのに。
以前、漫画『マダムとミスター』(遠藤淑子著 白泉社)という少女マンガを見たとき、クリスマス・イブの夜にみんながテーブルを囲みお祈りをするシーンがありました。
私が読んだ回では、主人公のグレース・ジョンストンが実母との対立と死別について思い出しながら贖罪(「しょくざい」 犠牲や代償を捧げることによって罪過[「ざいか」 つみとあやまち]をあがなうこと。)する姿の物語で、「赦(ゆる)すことの難しさ」と描いていました。
「クリスマス・イブの本来の姿って、これだよな。」と思いました。