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「お礼といってはなんですが」 (2289文字)
私の書棚は、小説や随筆集・専門書・受験参考書・コンピュータ関係書籍が私なりの分類法で並んでいますが、中に一つだけ分類するに忍びない本を入れてある書棚があります。「分類するに忍びない」というのは、エロ本の類いというのではなくて、どうしていいか決めかねているほんとという意味です。
その中にもらった漫画本がありそこには「○○(私の名です。)さん。先日はどうもありがとうございましたお礼といってはなんですがジャイアント台風台1巻を差し上げます。読んでください。2巻以降は探して下さい。」と書かれた黄色のポストイットが張られています。
もはや、何のお礼なのか思い出せません。
私はプロレス好きですが、それは昭和のジャイアント馬場の全盛期のプロレスのことで、アントニオ猪木の異種格闘技路線やUWFのプロレスとは違います。ですから、プロレスに詳しいというわけではありません。
それにしても『ジャイアント台風』第1巻とは懐かしい。今まであることすら忘れていました。
「身長2メートル9センチ、体重145キロ。日本が生んだ世界の巨人ジャイアント馬場」と実況アナウンサーが発していた台詞はまだ覚えています。
ジャイアント馬場は、2メートルを超える長身なのにこの頃(『ジャイアント台風』が連載されていた頃。)は、動きが俊敏でかなり運動神経がよかったという印象がありました。
また、デビューして間もなくアメリカ武者修行として渡米するなど、羨ましい環境にもありました。この本によると馬場が渡米したのは昭和36年ですから1961年です。まだ海外旅行など夢の世界だった頃です。ちなみに、JALパックは1964から始まりました。
海外の情報も少なく、「まだ見ぬ海外の強豪」と称されるプロレスラーが続々と日本のリングに上がり、プロレスファンはみなそれらを事実だと信じていました。そんなのどかな時代です。
でも、そんな中鉄の爪アイアンクローを武器にするフリッツ・フォン・エリックは正真正銘の強豪で(そう信じました。)、馬場の頭部に決まったときは「馬場が死んじゃう。」と本気思いました。
だいたい頭部を掴んでいるだけのはずなのに、馬場の頭部から激しく出血し、顔面が真っ赤になるのです。
まるで、血を搾り出しているかのようでした。
もっともこの第1巻にはエリックは登場しませんが。
そのかわり、馬場が日本プロレスに入る前の、プロ野球のジャイアンツ選手時代のことが少し描かれています。私はこの頃のことはあまり見たくありません。巨人阪神戦で馬場が登板するときに、阪神で最も小柄だった吉田選手を代打に出したら場内から笑いが起きたということを聞いたことがあるからです。身長差からしたら、デコボココンビに見えたのでしょう。また、当時の世相は今よりかなり野蛮で、そういうことを嘲笑するところがあったと思います。
代打に出したのは阪神球団ですから巨人に対して含むところはないのですが、巨人軍は馬場を冷遇していたと思うので、あまり見たくないのです。
ジャイアント馬場といえば、アントニオ猪木のことに触れなければなりません。
猪木を有名にしたのは、モハメド・アリとの異種格闘技戦だったと思います。
私は、試合の後の録画を見たように思います。
あの試合の後、猪木はかなり非難されました。「みっともない試合をした。」というのがその非難する者の主張のようです。
私は、猪木側がルール説明をちゃんとすればよかったのにと思います。それを、アリ陣営が拳銃を隠し持っていたとか、アリはリングを下りた後は一人で歩けないくらい足が腫れていたとか、本質とは違うことばかり言うのでプロレスファンは余計いらいらしたと思います。
私の解釈は、「アリはエキジビション(exhibition)だと思って試合契約したのに、猪木は本気だと分かり急遽自分に有利なルールに変更するよう求めた。そして、その要求が通らなければ試合をせずに帰国すると脅した。そこで、猪木はアリの提示したルールで試合をすることにした。猪木はこの試合実現のために巨額な借金をしていたので、どんなルールになろうと後戻りはできない状況だった。」というものです。
この解釈が正しかろうと正しくなかろうとそれはどうでもいいことで、事実がわからない以上(今更誰が何を言おうと真実性はないものと思います。)、自分で納得できればそれでいいと割り切ります。
で、馬場と猪木ですが、まず猪木が日本プロレスを出て新日本プロレスを立ち上げます。次に馬場が日本プロレスを出て全日本プロレスを立ち上げます。
この段階で、テレビ中継のあるインディーズ団体が三つ併存していたことになります(日本プロレスはスター選手も主力選手もいなくなりメジャー団体とは言えなくなっていました。)。
その後、日本プロレスはすぐなくなります。
残った2団体の社長である馬場と猪木はそもそも仲が悪いわけではなく、かといって過去の経緯から各々の会社を一つにするわけにもいかず、さらには配下のプロレスラーや従業員がたくさんいるので経営にも気を配る必要がありました。そういう事情があったので、彼らは両団体の対立構造を作りそれで双方の興行を盛り上げようとしたのだろうと思います。ただ、旗揚当初の興行成績は新日本プロレスの方が悪かったので、猪木が馬場に噛み付くという構図が多くなっただけなのだろうと思います。
それにしても、この本のポストイットにある「お礼」ってなんだったのだろうと未だに思い出せません。