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読書における連結感 (804文字)

 以前、故渡部昇一さんの『英文法を撫(な)でる』(PHP新書)を読んでいたとき、142ページに「・・・昼食(これがドイツの正餐)・・・」という記述に出会いました。
 このとき、「以前読んだ本にも『ここでは昼食が正餐ですのよ。』という記述があったっけ。」と思いました。
 その本がイーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』だったことはすぐ思い出しました。
 この本の初期の段階で私の嫌いなタイプの人物が登場し、友人に「こいつ嫌いだなぁ」とメールをしていたので記憶に残っていたのです。

 本を多く読んでいると、こんな本同士の接点を見つけることがよくあります。そんなとき、とてつもなく嬉しくなります。ただ、その喜びは自分だけのことで、友人らに言ってもあまりいい反応はありません。

 この『英文法を撫でる』の冒頭部分(14ページ)に、グッドモーニングという英語の挨拶の解釈について、ある英文法の本の著者を「英語を学問とやったことがないことは確かである。」とかなり辛辣なことが書いてありました。
 渡部さんの説明では「ドイツ語と対比して考えれば解る。」ということですが、その説明を読むと「なるほど。」と思いました。こんなところで、学生時代に第二外国語として選択したドイツ語が役に立つとは思いませんでした(私はドイツ語も英語も堪能ではありません。一応やった記憶があるだけです。)。

 そして、この本の32ページに「なぜ英文学はチョーサーかあ始まったか」という項があり、はじめてチョーサーと中英語の存在を知りました。
 その後、映画『ロックユー』("A Knights Tale")でチョーサー(ポール・ベタニー)が登場したとき、「これがあのチョーサーかぁ。」(映画内の設定ですから実際とは違いますが。)とちょっと感動しました。

 私はこのような本を媒介として、他の本や映像作品との繋がりがあると多幸感を得ます。

#英文法を撫でる #チョーサー

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