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推論「アメリカの法廷映画にはずれなし」 (1871文字)

 今は亡き私の父は、「アメリカの法廷映画にはずれがない。」とよく言っていました。

 潜水艦映画(こっちは国を問わず)もはずれがないと思いますが、アメリカの法廷映画もたしかに駄作にお目にかかったことがありません。

 私が最も好きなアメリカの法廷映画は「評決」(ポール・ニューマン主演)ですが、好きな法廷映画は他にもたくさんあります。
 アメリカは訴訟大国と言われるほど訴訟の多い国ですから、そのことを反映して法廷映画も洗練されるのかと思いましたが、正確なところは分かりません。
 ここで少し考えてみたいと思います。

 アメリカに最初に移民してきたのはイギリス人ですから、アメリカの法制度はイギリスの法制度を移植したものが多いだろうということは想像できます。おそらくはじめは13州に法制度ができ、その後新たな州ができるときにコピーされるように法制度ができていったと思うので、少しずつその州の現状に会うように修正されていったのだろうと思います。
 ただ、アメリカの法制度とイギリスの法制度には異なる部分もあります。例えば、アメリカには合衆国という成文(文章で書かれた)の憲法典がありますが、イギリスには成文法としての憲法はありません。

 イギリスの法廷映画も見応えのあるものが多いですが、アメリカの法廷映画ほどではないような気がします。イギリスの、かつらをかぶって行われる裁判に違和感を感じるせいなのか、主人公らの裁判外での活躍が映画の主たる内容になっていて裁判自体は主人公らの行動の正さにお墨付きを与える的な権威として登場することが多いからなのかも知れません。

 また、ヨーロッパには紛争解決手段として「決闘裁判」というものがあり、決闘によって裁判の勝敗を決めるということが近世まで行われていました。
 私が思うに、アメリカの法廷では当事者が弁論で争い決着をつけるという要素が多く、剣や銃で白黒をつける物語と似ていることも作品の評価を高める原因の一つになっているのではないかと思います。

 ところで、先日YouTubeの『ゆる言語ラジオ』という動画で「『論理的』は地域によって違う」という回を視聴しました。
 この動画の内容をここに書くと、当該動画の視聴回数の増加に悪影響があるかもしれないので書きません。

 ただ、私たちが論理的とか合理的と思っていることって、他の地域(国)で通用するかというとそうとは限らないということでした。

 私は、「論理は地球上どこでも通用する普遍(「ふへん」宇宙や世界の全体について言えること。)の手法」と思っていたので、凄く意外でした。

 しかし、上記の「論理の普遍性」が否定されるのであれば、日本の論理とアメリカの論理とが異なっていて当然に思えます。
 特に法廷に関していえば、日本の大岡裁きといわれる紛争解決方法と、アメリカの決闘的な裁判手法とはとても異なっているはずです。(そもそも奉行所のお裁(さば)きでは、裁判官と検察官がお奉行ですし、被告人に弁護士も付きません。)

 ところで、敗戦後の日本の学校教育はり大きく改革されました。改革するには何か目標となる教育制度があったはずです。日本の占領制作はほぼアメリカが行ったので、その目標となる教育制度は多分にアメリカ的だったということは容易に想像できます。
 そしてそれは、教育制度だけでなく、教育内容もかなりアメリカ方向に向いていたと想像することも容易です。
 ということは、日本の学校教育で教えられる論理はアメリカの論理に近いものだったといえそうです。

 そうなると、戦後の教育を受けた日本人はアメリカの裁判論理に親和性(「しんわせい」親しみ結び付きやすい性質。)を持ちやすいという推論が成り立ちそうです。
 これは、戦後教育を受けていない人(戦前・戦中に日本の教育を受けた人)であっても、アメリカ文化に影響を受けたり、「日本は戦争に負けたんだから一から出直しだ。」と考えた人たちも同じようにアメリカの裁判論理(というかアメリカそのもの)に親和性を持ったことでしょう。

 私は日本人であり海外での生活経験は一切ありませんが、アメリカの陪審員制度に違和感を感じませんし、刑事事件の司法取引も理解できます。
 だから私は(私の亡き父も)、アメリカの裁判映画で描かれる裁判制度に親和性があるのだと思います。

 そして、「アメリカの裁判映画にはずれなし。」という見解が形成されていったのだろうと思います。
 これはあくまで推論です。

 

#アメリカ裁判映画 #決闘裁判 #ゆる言語ラジオ  #『論理的』は地域によって違う

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