魔法を求める気持ち (886文字)
私の子供のころ、映画や海外ドラマに出てくるコンピュータは、すべて大型コンピュータでした。
大きな箪笥をいくつも並べたような筐体(「きょうたい」機器をおさめているはこ。)にはランプやネオンのような発光するものがたくさん付いていて、これらの点滅でコンピュータが計算している状態を表現していました。
このコンピュータのイメージは、恐らく黎明期(「れいめいき」輝かしい次の時代への始まりの時期。)のコンピュータであるENIACやHarvard MarkⅠの姿を借りたのでしょう。
とにかく当時は「コンピュータにより」といえば、その結果は物凄く正確だと思われました。コンピュータの動作原理は分からなくてもコンピュータが魔法のような威力を発揮してくれるということはみな知っていました。
次に来たのはパソコンで繋がるネットワークで、自宅から思うがままに銀行の警備カメラを管理するコンピュータに侵入したり、FBIの犯罪者記録を改ざんしたりと、まるで魔法の箱でした。
今は、AIのすばらしい機能を見せられてもそれほど驚かなくなりました。
最新鋭ジェット戦闘機に搭乗するパイロットのゴーグルに様々な情報が投影されるシステムを見ても、「以前映画で見たことある。」って感じで冷静に見ることができます。
アインシュタインの相対性理論の内容が誇張して伝えられると、「タイムマシンが実現化できるかもしれない。」と過剰なくらい期待した時代があったそうですから、今後もしタイムマシンが出来たとしても、「それ一回見たことある。」ということで世間は騒がないのでしょうか。
「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない。」というのは、英国のSF作家アーサー・C・クラークの言葉だそうですが、現代は電子機器の機能が魔法と見分けがつかないようになりました。
というか、人間は魔法を見てみたくて、魔法の代替品を求めているのではないかと思います。
大昔は、火とか薬が魔法で、その後は科学の発達共に科学と魔法が結び付いて認識されるようになってきたのではないかと思います。